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連載・特集

秋吉敏子 「HOPE」は私なりの戦争反対 93歳ジャズピアニスト来日 広島で公演

ヒロシマ最終楽章 9・11以降必ず演奏

 米ニューヨーク在住の世界的ジャズピアニスト秋吉敏子。ソロツアーのため93歳で単身来日し、長年交流する広島市中区の寺で演奏した。作曲と編曲を手がけ、2001年8月6日に広島市で初演した組曲「ヒロシマ~そして終焉(しゅうえん)から」の思い出を語り、「『ミナマタ(水俣)』『孤軍』と同じように、私にとって大切な作曲の一つになった」と力を込めた。(渡辺敬子)

 6月15日、5年ぶりの浄土真宗本願寺派善正寺(中川元慧(げんえ)住職)。黒いドレスの秋吉がグランドピアノの前に座った。1曲目は代表曲「ロング・イエロー・ロード」。弾き終えるたび、照れくさそうに肩をすくめたり、深呼吸したり。時折汗を拭き、手元のメモで曲順を確認。ジャズ喫茶でレコードを何度も聴いて曲を覚えた駆け出し時代や、往年のジャズマンとの思い出話も披露した。

 「私と広島とのつながりといえば、中川住職とのつながりです。ヒロシマのことを書くように彼から依頼されなかったら、書いていないと思います。恩があり、大変感謝しています」

 こうして生まれた組曲「ヒロシマ」は「無益な悲劇」「生存者の語り」「希望(HOPE)」の三つの楽章からなる40分強の大作だ。01年当時、夫ルー・タバキンとともに来日した秋吉のジャズ・オーケストラには、韓国の元長賢(ウォン・ジャンヒョン)も笛で加わった。

 「日本の演奏旅行が終わり、ニューヨークに戻った時にダウンタウンが攻撃された。月曜夜にクラブで演奏し、やっと寝付いた朝でした」。同年9月11日の米中枢同時多発テロ以降、組曲は新たな役割を持った。「バンドでもソロでも、どこでも、(最終楽章の)『HOPE』だけを最後に演奏し、コンサートをおしまいにします。私なりの戦争反対というわけです」

 秋吉は旧満州(中国東北部)の遼陽生まれ。1946年に引き揚げ船でようやく帰国し、初めて踏んだ日本は宇品港だった。「(殺虫剤の)DDTを頭にぶっかけられて。そのまま列車に乗って両親の出身地の大分へ向かいました。それだけです。覚えているのは」

 善正寺では、休憩を挟む1時間半で12曲を披露。演奏は次第に熱を帯び、力強さを増した。「HOPE」で締めくくり、アンコールに「月の沙漠」で応えた。

 公演の翌日、秋吉は平和記念公園にいた。「アメリカ人、韓国人、日本人、みんな犠牲になった」。原爆ドームと韓国人原爆犠牲者慰霊碑に手を合わせた。「支配者が起こす戦争で、国民の生活や運命が左右される。愛し合わなくてもいいから、少なくとも我慢し合おう。戦争をして、いいことは何もありません」

98年に作曲依頼 善正寺の中川元慧住職(73)に聞く

世界へ発信 彼女の強さあってこそ

 被爆50年の1995年8月6日、ジャズピアニストのマル・ウォルドロンさんを受け入れた。原爆資料館で出合った詩から曲を作り、本堂での公演を収録し、CDにした。これに触発され、外国人に原爆についてメッセージを送る音楽作品を作りたいと考えた。

 秋吉敏子さんには水俣を題材にした曲もある。日本人の心が分かり、世界へ発信する力があるのは彼女しかいない。しかし面識はなかった。ジャズ喫茶の仲間と相談し、ジャズ愛好家内田修さんの仲介で98年11月、秋吉さんを初めて寺に招いた。その打ち上げで「原爆の作品を書いてもらいたい」と直接依頼した。

 原爆資料館で求めた写真集など資料を送った。初めは「ちょっと無理」という話だったが、約1年後に連絡が来た。山端庸介が被爆翌日の長崎で撮った少女の笑顔に心動かされ、「悲惨さではなく、どんなことがあっても希望につながる未来がある、という観点でなら曲が書けそうだ」と。

 秋吉さんの条件は、21世紀最初の8月6日に広島で、ビッグバンドで演奏すること。それから何度も広島に足を運び、2000年の平和記念式典は一緒に参列した。

 一方、演奏を収めたCDを褒めた米国の評論家は抗議も受けたそうだ。米国で「ヒロシマ」が初めて演奏されたのは03年10月、カーネギーホールで開いた「秋吉敏子ジャズ・オーケストラ」の解散コンサート。彼女は強い。被爆国の音楽家がすごい仕事を果たした。

 自分が作った曲のうち一番の傑作で、他は消えても、この曲だけは残るだろうと話していた。私が思った以上に秋吉さんは深く受け止めてくれた。キャリアの集大成になったのだろう。

 私自身は母と祖母が被爆し、父も入市被爆。祖父の遺骨は見つからない。妻の両親も被爆した。境内の墓には8月6日に亡くなった多くの方の名が刻まれている。私はジャズが好きだから、ジャズで何かしたかった。それだけなんです。

 <プロフィル>7歳からクラシックピアノを学ぶ。引き揚げ後、大分県別府市や福岡市でジャズを演奏し、18歳で単身上京。オスカー・ピーターソンに認められ、初アルバム録音。バークリー音楽院の奨学生として1956年渡米。日本文化とジャズを融合させた自身のオリジナル曲を演奏するビッグバンドを73年結成し、2003年まで活動。紫綬褒章、旭日小綬章。国際ジャズ名誉の殿堂入り、米国立芸術基金ジャズマスターズ賞は日本人初。グラミー賞ノミネート14回。趣味はワイン。今も1日2時間のピアノ練習を自らに課す。

(2023年7月8日朝刊掲載)

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