『記憶を受け継ぐ』 本保幸雄さん―原爆 戦後の人生も翻弄
23年7月11日
本保幸雄(もとやすゆきお)さん(92)=広島市中区
反対された結婚 妻の分まで体験語る
92歳の本保幸雄さんの人生は、亡き妻良子さん(2015年に死去)の存在抜きに語れないと言います。長年被爆証言活動に取り組んだ良子さんを支え、最期をみとった本保さんは今、夫婦2人の被爆体験を若い世代に語っています。
呉市生まれの本保さんは5歳のとき、広島市に移り住みました。1945年当時は山陽中(現山陽高)2年生。元宇品(現南区)の陸軍兵器支廠(ししょう)宇品出張所の官舎に両親と2歳の妹の4人で暮らしていました。職業軍人だった父が退官後、兵器支廠に勤めていたためです。9歳の弟は学童疎開(そかい)していました。
8月6日は学徒動員の初日でした。爆心地から1・5キロの西天満町(現西区天満町)の東洋製缶広島工場で魚雷(ぎょらい)の信管づくりに当たることになっていました。
朝8時ごろ到着(とうちゃく)した本保さんは始業まで同級生3人で砂場で相撲(すもう)を取っていました。しかし「体の小さい私は全敗」。ほかの2人が勝負を続ける中、早めに控室に入ろうとしたその時―。強烈(きょうれつ)な光と風が入ってきて部屋の隅に吹き飛ばされました。気がつくと工場の屋根はなく、誰もいません。
かすり傷程度だった本保さんは工場からはい出し「家に帰ろう」と東に向かいました。すると焼けただれた人々がこちらに向かってきます。「あっちは大火災で通れない」と聞き、西へ。川には遺体が浮(う)かび、着の身着のままの人が大勢いました。不意に「水を下さい」と足をつかまれました。「放してもらおうと腕(うで)を持つと皮膚(ひふ)がめくれ体液が流れ出て…。その感触(かんしょく)は忘れられない」。その後も助けを求める人を蹴飛(けと)ばすように逃げました。「感覚がまひし、怖いとか悲しいとか分からなかった」
しばらくして空を見上げると東には赤く染まった入道雲があるのに西には青空が広がっていました。西から南へ遠回りしてたどり着いた自宅官舎は救護所となり、瀕死(ひんし)の人であふれていました。数日後から本保さんにも異変が起きました。発疹(ほっしん)、脱毛(だつもう)、下痢(げり)…。年末まで寝込んでいました。
戦後、公務員として働いていた本保さんが、比治山国民学校の同級生、良子さんと再会したのは被爆から7年後。流川教会(現中区)の前でつばの広い帽子(ぼうし)を目深にかぶりスカーフを頰(ほお)かぶりした女性に呼び止められました。「本保君、分かる? 良子よ」。思わぬ再会に手を握(にぎ)ると、指はくっつき曲がっていました。スカーフを外した顔はやけどで赤いしま状になり唇(くちびる)もまくれていました。
良子さんが原爆にやられたのもまた学徒動員中でした。爆心地から約1・2キロで建物疎開作業中。全身大やけどの重傷でした。一命を取り留めたもののケロイドは残り近所の子どもには「赤鬼(あかおに)が来た」とからかわれ、つらい日々を過ごしたそうです。それで心の癒やしを求め、やけどを負った女性被爆者の支援活動をしていた谷本清牧師を、教会に訪ねていたのでした。
交際を経たある日、本保さんは「結婚したい」と、父親に良子さんを紹介しました。しかし返ってきた言葉は「きず物は家に入れない」。家を捨て、良子さんと生きる道を選びました。
結婚後、良子さんは「核兵器ノーの声を上げなくては」と人前で体験を語るようになりました。本保さんはあちこち出掛ける良子さんを「運転手」として支え、晩年認知症を患(わずら)った良子さんの介護もしました。
「原爆に翻弄(ほんろう)された人生」でしたが、2人の娘に恵まれ今は孫もひ孫もいます。「これからの人が私たちのような思いをしなくても済むように」と6年前から証言活動を始めました。今後も2人分の体験を伝え続けるつもりです。泉下(せんか)の妻には「まだ呼ばないで」と待ってもらっています。(森田裕美)
私たち10代の感想
思い 私たちが伝える
原爆に遭(あ)った時の様子だけでなく、戦時中や戦後についても聞きました。被爆者としての苦しみや、良子さんと結婚する時の差別などの話に、「もう誰も同じような体験をすることのない世界になってほしい」という本保さんの強い思いが込(こ)められていると感じました。このような被爆者の思いを、私たちが伝えていきたいです。(中1山下綾子)
当たり前奪った 実感
本保さんが被爆後に空を見上げた時、「東には赤い入道雲のような雲があったが、西側は青空だった」という話が印象的でした。これまで原爆の惨状(さんじょう)を、現在とはかけ離(はな)れた出来事として想像してきましたが、そこには今と変わらない青い空が広がっていたのです。原爆が突然(とつぜん)広島の人々の「当たり前」を奪(うば)ったのだと実感しました。(高1吉田真結)
本保さんのお話で一番印象に残ったのが、自宅に帰ろうと橋を渡ったときの話です。皮膚(ひふ)がただれた瀕死(ひんし)の人たちの救いを求める手を振り払いながら歩いたと聞き、当時の悲惨(ひさん)な状況を生々しくイメージさせられました。どうにかして生き延びようと手を伸(の)ばす人間がそこらじゅうにいるような無惨(むざん)な光景は、二度と繰り返してはならないと思いました。(中2川鍋岳)
本保さんが、父親の反対を押し切って良子さんと結婚し、良子さんが亡くなるまでずっと介護(かいご)をして面倒(めんどう)をみていたというエピソードに、本保さんの優しさがあふれているなと思いました。自分の思いを貫(つらぬ)いた分、最後まで責任を持つことは、何においても重要であり、今の私にも学べることだと思います。(中3山下裕子)
「水をください」と足をつかまれ、振(ふ)り払(はら)うとその人の皮膚(ひふ)がめくれ体液が流れ出た、という話が特に印象に残りました。きっとそのつかんだ人も生きたくて、でも逃げられなくてというどうしようもない絶望感があったと思います。今、「抑止(よくし)」のために核兵器が必要と見る人が少なくありませんが、それは使用されたときのことを想像できていないからだと思います。被爆者の体験を、自分事に感じられるような発信に努めたいです。(高1谷村咲蕾)
(2023年7月11日朝刊掲載)