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「事実伝える闘いあった」 ジョン・ハーシー「ヒロシマ」 米での事前検閲知る講演会

修正指示 応じなかった部分も

 米軍による原爆投下から9カ月後に占領下の広島に入った米ジャーナリスト、ジョン・ハーシーのルポ「ヒロシマ」が事前検閲を受けていた歴史を知る講演会が、広島市西区の泉美術館であった。同館特別展「広島の記憶」のトークイベントで、関連資料を研究する神戸市外国語大の繁沢敦子准教授=写真=が解説した。

 「ヒロシマ」は医師やドイツ人神父、夫を失った女性らを取材して1946年8月、雑誌「ニューヨーカー」に掲載。被爆の惨状を世界に知らせた。日本では登場人物の一人だった広島流川教会の谷本清牧師らが翻訳し、3年遅れで出版された。日米で検閲を回避したとされてきたが、近年、米本国では検閲を経たとの指摘もあった。繁沢さんは検閲に使われたゲラ(校正刷り)を米公文書館で収集し、そのことを裏付けた。

 書き込みは9カ所で、筆跡は原爆を開発した「マンハッタン計画」の責任者、レスリー・グローブス中将のもの。原爆さく裂後に起こった「熱風」と「竜巻」を、グローブスは「根拠がない」と書いた。出版段階では「熱」と「旋風」となった。繁沢さんは「原爆の威力に関する表現は弱くなった」と指摘する。

 検閲内容から、熱線の猛烈さや、残留放射線に関する表現に注意を払う傾向が垣間見えるという。当時は米戦略爆撃調査団が「原爆を使わなくても45年11月には日本が降伏していた」とする報告書を出しており、「『ヒロシマ』がこの報告書に依拠していること自体、グローブスには不満だった」と繁沢さんはみる。ハーシーは、草稿で2回言及した同調査団の名を出版時に削っている。

 一方で修正に応じなかったり、わずかな直しだったりのままの箇所も。「検閲をただ甘受したのでなく、事実を伝えようとするハーシーと雑誌出版社の闘いは最後まであった。85年には広島を再訪して『その後』を書いている。約40年をかけて検閲を乗り越えたのではないか」

 特別展では「ニューヨーカー」の原本をはじめ、日本が報道統制下にあり原爆被害の発信が阻まれた時期の資料も多く展示している。8月27日まで。月曜休館。(金崎由美)

(2023年7月11日朝刊掲載)

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