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社説・コラム

天風録 『科学史家と人影の石』

 60年ほど前のことだ。東京の大学で物理学を学ぶ青年が広島を訪れた。そして原爆投下の爪痕を見て強い衝撃を受ける。人影の石―。あの日あの瞬間、爆心地に近い銀行支店前の階段にいた人の跡が、くっきりと残された▲時は高度成長期の日本。発達する科学技術に、原爆の惨禍の教訓が生かされているのか。ふと抱いた疑問が青年の進む道を決めた。訃報が届いた科学史家、常石敬一さんの若き日の姿だ▲戦争と関わり、暴走して非人道兵器に手を染めた科学者たち。その実態を解明した先駆者だろう。大久野島を含む世界の毒ガス製造、日本の細菌戦部隊「731」、米原爆開発とプルトニウム。フィールドを広げ、科学文明の影を粘り強く告発した▲ふさふさの白髪とひげ。お茶の間で知られたのは一連のオウム真理教事件ゆえだ。生物化学兵器の専門家としてテレビに引っ張りだこで、スタジオに来てサリン製造を否定する教団幹部を鋭く追及した姿も記憶に残る▲遺著「731部隊全史」でも、科学が軍事と一体化する危うさを現代の問題として警告していた。その強い思いをどう継ぐか。今は原爆資料館に展示される石の影は、昔に比べればずいぶん薄らいだ。

(2023年7月12日朝刊掲載)

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