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連載・特集

緑地帯 小桜けい 種を置く⑤

 鳩は40キロ先を見通せるほど、視力が良いという。私の視力は0・1ほどで眼鏡がないとぼんやりしている。けれど、小説を書くための視力は別にあるような気がする。

 小説にのめりこむ少し前、写真を学んだ。30過ぎて京都芸術大写真コースの通信教育部の学生になったのだ。一般科目と専門科目を自宅学習とスクーリングでこなす。京都へ年に数回、通った。

 もともと写真は好きで、メイプルソープ、キャパ、アンセル・アダムス、植田正治など生の写真が見られる機会があれば行った。デザイン学校に通っていた頃、モノクロ写真を焼く授業が好きだった。写真家・宮本隆司さんが大学の教授になると聞き、すぐに申し込んだ。そのとき、一眼レフは持っていなかった。

 大学では基礎も教えてくれるが、芸術としての作品作りを求められた。勢いで入学したものの、徐々に作品を作るのが苦痛になった。それでもプリントは楽しかった。

 暗室で酢酸の匂いを嗅ぎながら、白い印画紙に世界が浮かび上がるのを待つ。切り取られた画像は現実だが、別の世界に見えた。思えば、小説を書くのに似ている気がする。文字を書き進むうちに、世界が立ち上がっていく感じ。  小説を書く取っかかりは、景色が見えたときだ。印画紙に浮かび上がるみたいにはっきり像を結び、その中に主人公が立つと、物語が動き始める。

 結局、大学は中退したが、写真は小説用の視力を多少なりとも鍛えてくれたかもしれない。 (第55回中国短編文学賞大賞受賞者=広島市)

(2023年7月12日朝刊掲載)

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