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連載・特集

緑地帯 田辺良平 没後100年・加藤友三郎②

 加藤友三郎は、文久元(1861)年2月22日、広島藩士加藤七郎兵衛の三男、6人目の末っ子として、大手町7丁目196番屋敷で生まれた。現在の地番でいうと中区大手町3丁目で、そこは「大手町第二公園」となっており、公園の一角には「加藤友三郎閣下生誕之地」と刻まれた高さ1メートル足らずの石碑が建てられている。

 七郎兵衛は藩の俸禄(ほうろく)は13石3人扶持(ぶち)と下級武士ではあったが、学問に優れていたことから学問所の助教授に抜てきされていた。友三郎が3歳の時に亡くなったので、加藤家は17歳年上の兄種之助が継承し友三郎の養育は兄が行った。兄は漢学の造詣も深く剛毅(ごうき)不屈な性格で、明治維新後の戊辰戦争では広島藩神機隊の小隊長として新政府軍に加わり、倒幕で大きな功名を上げて20石の加増を得ているほどだ。明治10年の西南戦争時には陸軍中尉として、政府軍の一部隊を引き連れて参戦し政府軍の勝利に貢献している。戦後には海軍の所属となり中尉となった。

 兄が参戦している間母の竹が友三郎の面倒を見ていたが、母も武術の心得もあり胆力に優れた人物で、父や兄が藩のために奔走できたのは母の手助けが大きかったといわれている。友三郎に対しては自由奔放に育てたが、漢学塾に通うなど勉強の方もそこそこできたようだ。兄は友三郎の素質を見込んで海軍兵学校に入学を勧めた。友三郎12歳の時である。ちょうどその年から兵学校の受験資格が1歳繰り下げとなったことで、友三郎はかろうじて受験資格を得ることができたのであった。彼の「運」の向き始めである。 (郷土史家=広島市)

(2023年7月19日朝刊掲載)

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