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幸せの一瞬 ヒロシマの希望 土門拳撮影の「被爆者夫妻」 泉美術館で遺族が語る

ght:bold;">「絶対スナップ」作風を代表

 1957年、写真家の土門拳が初めて被爆地広島で取材した連作「ヒロシマ」(写真集は58年刊)は、原爆を巡る写真表現の金字塔だ。原爆の爪痕を物語る痛々しい光景を多く収めるが、被爆者の夫妻と子どもの笑顔を捉えた異色のカットもある。広島市西区の泉美術館で開催中の「広島の記憶」展に並ぶその1枚について、「写っているのは亡き両親」と明かした遺族にエピソードを伺った。(編集委員・道面雅量)

 キャプションは「被爆者同士の結婚 小谷(こだに)夫妻の場合」。南区仁保で暮らす小谷育男さん、須磨子さん夫妻が、初めて授かった子と一緒に写っている。展覧会を紹介した本紙文化面の写真を見た次女の小田文江さん(64)=南区=が、広場欄へ「久しぶりに父と母を見た」と投稿。姉の阿部浩美さん(67)=江田島市=と会場を訪れた。写真の赤ん坊は浩美さんである。

 45年の被爆当時、育男さんは15歳、須磨子さんは17歳。それぞれ爆心地から約1・5キロで、顔や手足に重いやけどを負った。12年後の撮影時、育男さんは8回、須磨子さんは7回の植皮手術を受けていることを取材に答え、土門がエッセーにつづっている。

 夫妻は手術を受けた病院で知り合い、育男さんが熱心にプロポーズしたという。土門は、彼らしい即物的な表現で「いわば、ケロイドが取りもつ縁ですね」と須磨子さんに話しかけた。須磨子さんは「(夫は)上手(じょうず)がない。だけど芯がいいから」「幸福ですわ」と語っている。

 土門は、10年後の67年にも小谷さん宅を訪ねた。長男、文江さんも交えた家族5人の集合を撮り、写真集「生きているヒロシマ」(78年刊)に収録している。ただ、浩美さんも文江さんも、この時を含めて「土門さんについて何か語れるような記憶はないんです。両親にも聞きそびれていて…」と、申し訳なさそうに口をそろえる。育男さんは92年9月、肝臓がんのため62歳で死去。須磨子さんも同年12月、悪性リンパ腫で64歳で亡くなったという。

 写真を前に、文江さんがふと漏らした。「こんな笑顔が、その後のわが家にいつもあふれていたわけではないです」。57年の撮影当時、育男さんは実家でカキ養殖の手伝いをしていたが、体の不調を訴えることが多く、仕事は転々として長続きしなかった。酒量が増えていったという。

 「被爆の影響は大きいと思います。心の面でもね。元は近所でも評判の美男子だったというから」と浩美さん。須磨子さんがカキ打ちのパートに出るなどし、家計を支えたという。

 浩美さんと文江さんの語りは続いた。「2人とも、青春まっただ中に大やけどじゃもんね」「原爆に遭わんかったら、という気はするね」「でも、もしそうなら結婚しとらんじゃん」「当たり前の家庭ではなかった、ということかねえ」…。土門の「ヒロシマ」を代表する1枚について「両親の幸せの一瞬を残してくれた」と感謝する。

 「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱し、シャッターチャンスにこだわり抜いた土門の作風を代表する1枚でもあるだろう。「美しい」という形容こそふさわしい小谷夫妻の笑顔、新しい命の丸々としたたたずまい。ヒロシマの「希望」そのものを焼き付けて、時を超えた今に響く。

    ◇

 「広島の記憶」は同館と中国新聞社の主催で8月27日まで。被爆を挟む時期の広島の姿に、写真のほか絵画、報道記事など多彩な資料で迫っている。月曜休館。

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 1909年、山形県酒田市生まれ。代表作に「筑豊のこどもたち」「古寺巡礼」など。83年、郷里の酒田市に土門拳記念館が開館した。90年没。

(2023年7月20日朝刊掲載)

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