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連載・特集

緑地帯 田辺良平 没後100年・加藤友三郎③

 海軍兵学校は、海洋国日本の海軍幹部を養成する必要から、明治2(1869)年に新政府直属の教育機関として、東京・築地の旧幕府海軍の跡地に「海軍操練所」の名称で設立されたものである。幹部の養成という大きな目標があるだけに、生徒の教育環境には随分と力が入れられ、全寮制で学費寮費は全額国庫負担という恵まれた教育機関であった。それだけに受験者も多く、特に貧乏士族の子弟が多かった。友三郎もその一員であり、彼が受験した時は60人の定員に対して相当な競争率であったようだ。友三郎は最年少の受験生で年齢差のハンディはあったが、合格することができて明治6年10月に第4期生として入学した。

 友三郎が入学した年の3カ月前に、イギリスから34人もの教官団が着任して教育の充実が図られた。学習のみならず体育面でも活発で、学校での運動会が始められたのもこの兵学寮であった。運動の一環としてサッカーが教えられたようで、わが国のサッカーはここが嚆矢(こうし)とされている。入学当初の友三郎はさほど目立つ存在ではなかったようで、60人中30番前後の成績であったが、予科、本科と進むにつれて成績は上がり、明治13年12月の第7期の卒業時には30人中2番の成績であった。

 この当時の海軍は、薩摩藩の出身者が実力のいかんにかかわらず重要な役に就いていた。しかし、海兵2期卒業で海軍の実権を握っていた山本権兵衛は、薩摩の出身でありながら薩摩閥を一掃し、海兵出身で成績優秀な実力のある者を重要な部署に配置した。友三郎は山本の目にかなったようである。(郷土史家=広島市)

(2023年7月20日朝刊掲載)

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