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連載・特集

サミットを終えた夏~首脳はヒロシマを見たか <1> 閉ざされた原爆資料館

見送った本館に実像

核なき世界実現への力

 被爆地広島は、5月の先進7カ国首脳会議(G7サミット)を終えて初の原爆の日を迎える。核兵器保有国を含む世界のリーダーが平和記念公園(広島市中区)で見たという被爆の実態は何なのか。そして、何を見ていないのか。「あの日」から78年。ヒロシマの原点に立ち、核兵器廃絶に向けた行動の道しるべを探る。

 広島の夏に、人波が戻ってきた。原爆資料館の入館者数はサミット直後に1日1万人を超え、過去最多を記録した2019年度に迫る勢いだ。

真剣に証言聴く

 世界の注目を集めたサミット初日の5月19日。臨時休館し、静寂に包まれた資料館にG7と欧州連合(EU)の首脳9人は入った。東館1階からエスカレーターで3階へ。眼前に、被爆前の広島県産業奨励館(現原爆ドーム)一帯の写真が広がる。歩を進めると、焦土と化した爆心地の景色に変わる。

 その空間で首脳たちは、被爆10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんの折り鶴や血まみれの学生服、三輪車に見入り、被爆者の小倉桂子さん(85)の証言を聴いた。真剣な表情だったという。ただ、ここで通常の見学ルートを外れ、日頃使わない階段から1階へ降りた。

 本来なら、東館から30メートルほど延びる渡り廊下の先の本館入り口で、首脳たちは被爆した1人の少女の写真と対面するはずだった。当時10歳の藤井幸子さん。右腕に包帯を巻いて焼け跡にたたずみ、見学者にまっすぐな視線を向ける。78年前の広島へ引き込むように。「どこまで原爆被害が伝わっただろうか」。長男の哲伸さん(63)=東京都=は、本館を訪れなかった首脳たちを歯がゆく思う。

 幸子さんは幟町国民学校(現幟町小、中区)5年の時、爆心地から約1・2キロの弥生町(現中区)にあった自宅で被爆し、右腕に大やけどを負った。被爆3日後に撮られた写真の訴えかけるような表情は「右腕が痛くて」。結婚して哲伸さんたち2児を授かり、幸せな家庭を築いていたところに、30代で乳がんを発症。入退院を繰り返し、被爆32年後に骨髄がんのため、42歳で亡くなった。

惨状伝える遺品

 戦時下ながら、日常の生活を営んでいた市民が原爆被害に遭ったと分かる1枚として、藤井さんの写真は19年の本館リニューアル時に入り口に掲げられた。本館は犠牲者の遺品など実物資料を並べ、遺影やエピソードを添えて一人一人の無念と家族の悲嘆を伝える。

 「当事者感覚を持ってもらうのが狙い」と、リニューアルに携わった前館長の志賀賢治さん(70)=西区=は明かす。見学時間は平均60分だが、ポイントを絞れば20分で回れるという。「五感全てを動員して、展示と向き合ってほしいんです」。広島県や市は昨年10月の外務省との協議で、首脳の見学時間を本館を含め20分と提案していた。

 本館出口には、幸子さんの被爆時と20歳の時の写真が2枚並び、早世した事実を告げる。「本館を見て初めて、生涯にわたり体をむしばむ放射能の恐ろしさが感じられる。東館に一部の資料を集めても伝わらない」と哲伸さんは考える。

 首脳たちが資料館にそろって滞在したのは40分。時間配分次第で本館を見学できた。「見せたくない物があったのだろうか」。志賀さんも、哲伸さんも同じ見立てだ。一人一人の犠牲に向き合えば核兵器は使えなくなる―。首脳たちが行かなかった事実は、原爆の惨禍とともに「核兵器のない世界」の実現を迫る本館の力を裏付けた。(和多正憲)

広島サミットと原爆資料館
 5月19~21日に広島市南区のホテルを主会場に開催。参加国の日本、フランス、米国、カナダ、ドイツ、イタリア、英国と、欧州連合(EU)の首脳は初日に、招待国のインド、韓国、ウクライナなど9カ国の首脳と国際機関の長たちは最終日に平和記念公園(中区)を訪れた。原爆資料館は本館で犠牲者の遺品などの実物資料を常設展示しているが、首脳たちは東館で一部の被爆資料を見た。

(2023年7月21日朝刊掲載)

サミットを終えた夏 ヒロシマの叫び 届きましたか G7首脳 原爆資料館での40分検証

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