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連載・特集

緑地帯 田辺良平 没後100年・加藤友三郎④

 「運も実力のうち」といわれるが、ある程度の実力がなければ「運」を手繰り寄せることはできまい。兵学校の卒業時に成績が2番であった友三郎は、その運を近づける努力もあったようだ。

 兵学校では兄種之助の助言を参考に砲術を専攻することにした。兄は戊辰戦争や西南戦争で大砲の威力が発揮されたことを間近で目にして、これからは軍艦に取り付けられた大砲の時代であると確信して、友三郎には砲術を専攻するように勧めたのである。

 友三郎は兄の意図をくみ取って砲術に取り組むこととした。ちょうど友三郎が卒業した年から大砲を備えた軍艦が使用されるようになり、これに乗りこんで遠洋航海が頻繁となった。航海の中途で砲術の実際訓練ができるようになり、友三郎にとっては得難い実習ができたのであった。彼の努力が実って遠洋航海から帰ってからは、砲術師範の試験に合格し兵学校の砲術教師に任命されたのである。

 明治23(1890)年3月、友三郎は高千穂艦の砲術長に任命されて、砲術の腕が発揮できると勇んでいたが、翌年7月には海軍参謀部への異動を命じられて政務に当たることになった。さらに24年10月には造兵監督官という役に就き、英国で建造中の巡洋艦「吉野」の引き取りに英国に出張することになった。このような目まぐるしい異動は、海軍省内の人事を握っていた山本権兵衛の采配によるもので、友三郎は将来有望であると見込まれたのであろう。山本という良き上司に恵まれた幸運といえるのではなかろうか。(郷土史家=広島市)

(2023年7月21日朝刊掲載)

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