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連載・特集

サミットを終えた夏~首脳はヒロシマを見たか <4> 沿道の慰霊碑

動員学徒の無念さ刻む

「もし作業がなければ…」

 広島市中心部を東西に貫く平和大通り。緑地帯の木々を日よけに、中区小町の広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)の正門跡に「追憶之碑」がひっそりと立つ。区内に住む細川洋さん(64)は、銘板に記された叔母の名前を見つめてつぶやいた。「あの日、もし建物疎開の作業がなければ、命が助かったのに」

「6000人が犠牲に」

 太平洋戦争中、労働力不足を補うため、国策として少年少女が勤労動員された。原爆資料館(中区)によると、広島市中心部では1945年8月6日、空襲による延焼を防ぐために家屋を解体する「建物疎開」の作業に旧制中学や女学校の生徒たち約8千人が動員されていた。うち約6千人が原爆の犠牲になったとされる。

 細川さんの叔母、森脇瑤子さん=当時(13)=は「あこがれていた第一県女の生徒になった」と、入学式のあった4月6日の日記に喜びをつづっていた。その後も、空襲警報が鳴る中、友人と学校生活を楽しむ様子を記す。「明日からは家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う」。8月5日のページが最後になった。

 翌朝、「級長だからと、朝早く宮島の自宅を出た」(細川さん)という瑤子さんは土橋町(現中区)に集合。爆心地から約800メートルで熱線を浴びて全身にやけどを負い、その夜に市郊外の救護所で息を引き取った。当時動員された県女1年生223人は全滅した。追憶之碑の銘板には他の生徒、教職員を含め301人を刻む。

注目の機会なく

 細川さんは先進7カ国首脳会議(G7サミット)初日の5月19日、かつての防火帯跡に整備された平和大通り沿いの碑前を訪れた。厳戒態勢で通行止めの中、平和記念公園(中区)に向かう首脳たちの車列を見ようと、大勢の人垣ができていた。「戦時中に子どもたちが切り開いた道路を通り、世界の指導者が一堂に会した意義はあった。首脳たちに平和への思いが心のおき火のように残ってほしい」と願う。

 ただ、沿道に並ぶ80超の慰霊碑などが注目されることはなかった。やはり一帯に動員された1、2年生541人が亡くなった市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の碑も原爆資料館の向かいに立つ。「ヒロシマが政治利用されただけだった」。原爆投下時2年生で体調を崩して休んだ被爆者の矢野美耶古さん(92)=西区=は憤る。

 建物疎開に動員されたのは学徒だけではない。爆心地の北約10キロの川内村(現安佐南区)から来た義勇隊の住民180人も全滅した。平和記念公園そばの本川東岸には犠牲者を悼む「義勇隊の碑」があり、G7の車列が何度も碑前を走り抜けている。

 遺族会長として建立に奔走した上村繁さん(81年に85歳で死去)の孫の利樹さん(69)は今も川内で農業を営む。「多くの仲間を失った。悔しくつらかっただろう。地域の思いを込めた碑は、首脳たちの誰かの目には入ったはずだ」と信じている。(川上裕)

(2023年7月24日朝刊掲載)

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