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連載・特集

サミットを終えた夏~首脳はヒロシマを見たか <3> 元宇品の被爆者

主会場 足元に戦禍の跡

「軍都」の一端担った街

 広島港(旧宇品港)を一望できる広島市南区元宇品町(宇品島)の高台で、被爆者の鈴木幸子さん(93)は幼い頃から暮らしてきた。宇品地区には陸軍運輸部(船舶司令部、通称暁部隊)が置かれ、築90年の自宅は幹部の宿舎になったという。「ここから暁部隊に通われて。馬に乗って行きよられたんです」

陸軍が拠点築く

 5月の先進7カ国首脳会議(G7サミット)で、主会場となったグランドプリンスホテル広島がある元宇品町。太平洋戦争中は、陸軍が敵機を撃ち落とすために築いた高射砲陣地や隊員の兵舎があった。「軍都広島」の一端を担い、原爆被害にも遭った。

 78年前のあの日、鈴木さんは広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)4年生だった。原爆投下時は学徒動員先の東洋工業(現マツダ、広島県府中町)にいた。伝馬船や陸路でようやく自宅にたどり着いたのは午後6時ごろ。爆風で割れたガラスは家中に飛び散り、玄関の戸には今もそのガラス片が残る。

 原爆投下後、町外と行き来する中で、焼けただれた人や、骨になった人を目の当たりにした。「二度と核兵器が使われてはいけない。私たちが受けた惨状を繰り返してはならない」と力を込める。

 市が1971年に刊行した広島原爆戦災誌によると、元宇品町は爆心地から最も遠い地点で5・7キロ。家屋の全壊や半壊を免れ、無傷の人が多かった。一方、地元の宇品造船所は、爆心地近くに建物疎開の作業に出た職員の多数を失った。社員寮には、避難者たち約300人を臨時収容したという。

まともに見れぬ

 「まともに見られん。背中やなんかは焼かれ、ほとんどは寝たきりみたいだった」。町内で被爆した原田芳雄さん(93)は、原爆投下後に造船所で目撃した惨状を覚えている。市中心部から運び込まれたとみられる人たちは大やけどを負い、車庫に寝かされていた。医療体制もままならない中、チンク油のようなものを塗られていたという。

 原田さんは当時15歳。市立第一工業学校(現県立広島工高)4年生で、8月6日の朝は自宅にいた。玄関で「極端な明るさの光と、どーんという地響き」を感じた瞬間、爆風で天井が浮き、2階の西側のガラスが割れ散った。市中心部で建物疎開に従事していた同級生たちを原爆で失った。

 サミット期間中、元宇品町は厳戒態勢の警備が敷かれ、対岸と結ぶ唯一の市道も封鎖された。住民たちが我慢を強いられる中、滞在した首脳たちが、足元の戦争と被爆の記憶に触れる様子は見られなかった。町が一大外交行事の舞台になってから2カ月。原田さんは、核兵器保有国を含む世界各国のリーダーたちに望む。「戦争はいけない。手をつなぎ合わせてやっていく平和を」(小林可奈)

(2023年7月23日朝刊掲載)

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