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連載・特集

緑地帯 田辺良平 没後100年・加藤友三郎⑤

 明治24(1891)年10月、友三郎は英国で建造中の巡洋艦「吉野」を引き取るために出張することになった。それまでは英国で造られた艦船は英国人によって日本に届けられていたが、その制度を変更して日本から出張して引き取ることとなった。その最初として友三郎が選ばれたのである。ちょうどその時兄が亡くなり、葬儀や家督相続の手続きに繁忙を極めたが、冷静に迅速に片づけて英国に向かったのである。

 友三郎は、2年間造兵監督官として滞在し、吉野艦が完成するまでその任務に当たるとともに、英国やヨーロッパ各国の状況について勉強する機会を得た。吉野艦が完成して日本へ曳航(えいこう)して帰る艦中では、吉野艦内をつぶさに把握することができた。明治27年に開戦となった日清戦争では、友三郎は吉野艦の砲術長として乗艦した。艦の特徴をよく理解していたことで存分な働きができた。

 この戦で友三郎の海軍内での評価は高まり、海軍技術会議議員、望楼長兼望楼手試験委員長、海軍大学校教官などに任命された。明治30年12月には海軍中佐となり翌年10月には巡洋艦筑紫艦長となるなど、海軍の要職を務めた。その後、関係が悪化してきたロシアとの開戦に備えて36年2月に海軍大演習が行われ、友三郎は第2艦隊参謀長に任命された。それから1年後の2月に日露戦争が勃発し、彼は旗艦出雲に乗艦して従軍することとなった。(郷土史家=広島市)

(2023年7月22日朝刊掲載)

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