×

連載・特集

サミットを終えた夏~首脳はヒロシマを見たか <2> 原爆孤児の苦難

会いたい…浮かぶ親の顔

生活困窮 偏見や蔑視も

 「私を大切にして下さった父母は八月六日の原子爆弾のため失ひました。大きくなって御恩返しをしなくてはなりません」。あどけなさが残る文字で切々とつづった作文に、亡き親を思う子の言葉が並ぶ。別の手記には「お坊さんになったら、お母さんに会えるの」。

施設に6年在籍

 原爆資料館(広島市中区)の東館1階で開かれている企画展には、原爆で親を失った孤児たちを受け入れた「広島戦災児育成所」(現佐伯区)での生活の記録などを伝える資料約150点が並ぶ。

 「親を失うまで、みんなごく普通の家庭で暮らしとった子どもだったんです」。被爆者の吉本直志郎さん(79)=西区=は今月上旬に初めて足を運ぶと、展示に見入り、懐かしんだ。

 広島県能美町(現江田島市)に住んでいた1歳の時、知人を捜しに出た母親におぶわれて入市被爆した。父親は戦病死。母親の病気療養を機に12歳ごろに育成所に入って6年間在籍し、他の子どもたちと一緒に生活した。当時はひとり親や祖父母がいても、原爆で生活が困窮した子たちは一様に「原爆孤児」と呼ばれていた。

 畑で大根を育てたり、テレビのプロレス観戦で力道山を応援したり。一つ屋根の下で暮らす集団生活は、吉本さんにとって「実家のような場所だった」という。ただ、周りを見渡すと、親に甘えた記憶がある子は、折に触れ寂しそうな表情を見せた。境遇を理解できない幼少の頃から預けられていた同世代もいて、胸を痛めた。

児童文学を執筆

 米軍が落としたたった1発の原爆が親を殺し、孤児と呼ばれる存在を生んだ。その数は2千人とも6500人ともいわれる。育成所にいたのは一握りでしかない。吉本さんは、30代で育成所を舞台にした児童文学「青葉学園物語」を書き上げた。いわれない偏見や蔑視を打ち消すように筆を走らせ、孤児たちが戦後をたくましく生きる姿を描いた。

 原爆孤児の企画展は、5月の先進7カ国首脳会議(G7サミット)で資料館を訪れた首脳たちも見た。松井一実市長はG7のメンバーたちに展示内容を説明。招待国で核兵器保有国インドのモディ首相は、見学の様子をツイッターに投稿している。

 資料館によると、企画展は広島サミットの開催が昨年5月に決まる前から計画していた。サミットを挟んで、多くの入館者が常設展見学後に足を運び、被爆にとどまらない原爆被害の実態に触れている。

 「利他的な人が政治家をしていれば、孤児が生まれずに済んだはずだ」と吉本さんは言う。「これだけの人が資料館に詰めかけてくれている。核兵器を持たないよう、政治家の心を動かしてほしい」(野平慧一)

広島戦災児育成所
 浄土真宗の僧侶で、1947年から広島県選出の参院議員を2期務めた山下義信氏(89年に95歳で死去)が、私財を投じて45年12月に広島県五日市町(現広島市佐伯区)に広島戦災児育成所を開設した。53年に市へ移管されるまでに約170人の孤児たちを受け入れた。60年に市童心園と改称し、67年に養護施設としての役割を終えた。

(2023年7月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ