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連載・特集

ヒロシマを知らせる 50年前HACの情熱 <上> 原爆文献520件 米市民へ

要約や英訳に若者らが奮闘

 「Black Rain」(「黒い雨」井伏鱒二)「Hiroshima Diary」(「ヒロシマ日記」蜂谷道彦)…。原爆関連の書籍や資料名が手書きされた青焼きコピー。50年前、被爆地で産声を上げた「ヒロシマを知らせる委員会(HAC)」が、米国オハイオ州のウィルミントン大平和資料センター(PRC)に届けた文献リストの一部だ。第1便25件を1974年5月に発送したことも確認できる。

活動は73~88年

 73年から88年にかけて、国内外に被爆の実情を伝える活動を続けたHAC。その歩みを伝える資料が、事務を引き継いだ広島市西区のワールド・フレンドシップ・センター(WFC)に残る。関係者の多くが世を去り、長く忘れられていた歩みがおぼろげながら見えてくる。

 文献を贈る活動は、米平和運動家バーバラ・レイノルズ(90年死去)の要請に応えたもの。広島で被爆者に寄り添い、WFCも創設したバーバラは69年帰国。核大国で反核運動に心血を注ぐ中、原爆資料を収集し核の脅威を伝える拠点が必要と感じたようだ。盟友バーバラの要請を受け、WFC初代理事長の原田東岷(99年死去)が被爆地のキーパーソンを束ね、HACを発足。広島市の助成を受けながら取り組んだのが原爆文献の寄贈だった。

 それらを基に75年にPRCに「広島・長崎記念文庫」が開設。ところが問題が浮上する。「ほとんどが日本語の文献のためごく限られた人数しか利用されない」と事業報告書にある。78年度からは「日本語資料はHACで800字程度に要約し英訳して発送」と決めた。

 翻訳にはWFCメンバーや英語が堪能な若者が携わったようだ。WFCでは、88年までに送付したとみられる520件のうち109冊分についてタイトルや書誌情報、要約などの日本語の手書き原稿と英文タイプの原稿が見つかっている。

平和の人材育つ

 何人がどう関わり、現地でどう活用されたかの記録はない。ただ事業報告書は「要約に必要な熟読が英訳作業する若人に改めてヒロシマの意義を知り平和の尊さを学ぶ機会を与えた」と思わぬ副産物に触れる。

 多言語で読める原爆文献をデータベース化しウェブサイトで公開する「リンガヒロシマ」代表の中村朋子は、翻訳に携わった一人。「この活動があったから今がある」と振り返る。旧知の原爆詩人栗原貞子(2005年死去)に「英語ができるなら役立てないと」とHACに紹介された。

 当時HACは広島平和文化センターに事務局を置き、職員で被爆者の松原美代子(18年死去)が事務を担っていた。「松原さんのところで要約を受け取り、訳して持って行くと次を渡される」。そのうち最初から自分でやりたいと申し出て、文献を読み込んで要約から取り組むように。「原爆がもたらした悲惨や被爆者の人生について深く考えるようになった」。81年から2年で25冊を担当後、面白くなって英語の原爆文献のリストアップを始め、研究の道へ。今に続く。

 WFC前理事長の山根美智子も、80~87年にWFCの翻訳クラスで英訳を担った経験がその後40年以上にわたる活動につながったと実感する。記録との再会を機に「先人の歩みを残し、受け継がなくては」と考えている。(文中敬称略)

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 WFCなどで見つかった資料や関係者の証言から、ネットもなかった半世紀前、国内外にヒロシマを知らせようと地道な活動を重ねた草の根の情熱に迫る。(森田裕美)

(2023年7月25日朝刊掲載)

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