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連載・特集

緑地帯 田辺良平 没後100年・加藤友三郎⑥

 明治37(1904)年2月、友三郎43歳の時、日本はロシアと戦争になった。彼は連合艦隊第2艦隊「出雲」の参謀長として、日本海の制海権を侵すロシアのウラジオストク艦隊の駆逐を行ったが、当初は濃霧に遮られて十分な効果が得られなかった。8月になってロシアの艦隊3艦のうち1艦撃沈、2艦を再起不能として日本海の制海権を取り戻した。この時の苦戦体験が友三郎のその後の戦術面に示唆を与えたようだ。

 日露戦争の日本海海戦は明治38年5月27日だが、その5カ月前に友三郎は第2艦隊の参謀長から連合艦隊の参謀長に昇格し、旗艦「三笠」に乗り込み指揮を執ることとなった。急きょ友三郎が連合艦隊に呼ばれたのは、連合艦隊司令長官東郷平八郎の意向で、大砲の技術に優れていることと、部下に対する指導が冷静で要領よく迅速である点が認められたようだ。

 一方、連合艦隊の司令長官になった東郷は56歳という高齢で退役軍人のリストに入っていたが、山本権兵衛海軍大臣の一声で就任することとなったのだ。明治天皇からこの時期に艦隊の長官に東郷を推した理由を聞かれた山本は「東郷は運の強い男ですから」と答えたことは有名な逸話である。

 東郷と友三郎のコンビが指揮して日本海海戦に勝利したのは歴史が記すとおりである。東郷と共に友三郎の評価は高まり、その後の活躍に生かされるのである。(郷土史家=広島市)

(2023年7月25日朝刊掲載)

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