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連載・特集

ヒロシマを知らせる 50年前HACの情熱 <中> 「原爆の絵」携え米国横断

29都市巡り体験を発信

 「37年前の出来事だったとして見ないで明日にも起り得る出来事だというふうに見ていただきたい」。1982年、ヒロシマを知らせる委員会(HAC)が、米国横断平和キャラバンに派遣した被爆者松原美代子(2018年死去)の手書きのスピーチ原稿がNPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(WFC、広島市西区)に残る。

 反核を情熱的に語った生前の松原の姿が思い浮かぶようだ。当時は米ソが核軍拡にしのぎを削った冷戦期。欧州への核兵器配備にあらがう反核市民運動が空前の盛り上がりを見せ、同年に米ニューヨークで第2回国連軍縮特別総会も予定されていた。

各地で反核集会

 HACは、米市民の反核世論を高めようと松原の派遣を計画。松原は米国のバーバラ・レイノルズやWFC元館長たちと、2カ月にわたってワゴン車で北米29都市を巡り、70回近い集会に参加。持参した「原爆の絵」を展示したりスライドを見せたりして、延べ約11万人に核兵器廃絶への思いを語った。当時の本紙はニューヨーク州でラジオ番組に出演した松原が「ケロイドを10回も手術した自分の体を平和のためにささげるつもりでこの旅を続けている」と語ったと報じる。

 14歳の時に爆心地から約1・5キロで被爆した松原は、顔など全身に大やけどを負う。作家ら著名人の支援で52年に植皮手術も受け、62、64年にはバーバラが提唱した世界平和巡礼に参加。共に反核平和運動を続けた。広島平和文化センター職員となり、HAC事務も担った。

 実は今回HAC資料がまとまって見つかったのは、松原のきちょうめんさによるところが大きい。発足に至るまでやその後のメモ、会計や事業報告書、書簡などをファイルに。米国へ届けた原爆文献一覧や要約文も清書し残していた。

 中でも平和キャラバンへの思い入れは強かったのだろう。旅が実現するまでにバーバラや関係者と交わした大量の書簡を「米国原爆の絵展」と記したファイルに保存していた。出発までの経過が見て取れる。

 松原が渡米する計画を知らせた後の81年5月7日付、バーバラからの書簡は「(原爆の絵は)とても人の心を動かすので多くの人に見てもらうべきだ」と応じ、成功させるため具体的活動について考えを問う。

 メールもスマートフォンもない時代。返信が遅いことを気に病む松原の手紙の下書きや、それぞれ同じ日に書いたとみられる行き違いの書簡もあり、連絡さえ一筋縄ではいかない中で計画を詰めた様子が見える。現地の受け入れ態勢の関係で、時期を当初の81年秋から翌春へ延期したことも分かる。

報告資料も多く

 報告資料も多い。巡った都市や集会の日時、参加人数などのほか、「ソ連へも行くべきだ」との声が強かったことや、原爆に対し「パールハーバー」が持ち出されたことを記す。「一般市民の核意識は低く、核抑止論者が今でも根づよく、今後引き続き〝ヒロシマの心〟を訴えつづけなければ」とも書き残す。その言葉通り松原は終生被爆体験を世界に発信し続けた。

 「陰から声援を送っていた」。64年の平和巡礼に参加して以来、松原を知るWFC名誉理事長の森下弘は振り返る。自らも米国を巡った経験から「草の根の力は小さいけれど、自発的に生まれる力は強く、広がる」と信じている。=文中敬称略 (森田裕美)

(2023年7月26日朝刊掲載)

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