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連載・特集

緑地帯 田辺良平 没後100年・加藤友三郎⑦

 第2次大隈重信内閣が成立した1年後の大正4(1915)年8月、友三郎は海軍大臣に任命され、国務大臣の一員として政治に関与することとなった。広島県人としては最初の大臣就任であったが、以降4代の内閣と自分が総理となった際にも兼務したので、都合8年間にわたり海軍大臣を務めた。この間、日本の政治の内面を知り、国家のあり方についての知識も習得したのだった。

 日本は海洋国家であることから、国防の見地から戦艦8隻・巡洋艦8隻の「八八艦隊の編成」が必要であるとの海軍政策で、歴代の海軍大臣が予算の編成を要求したが、いずれも議会での承認が得られない状況だった。そんな中で友三郎は日本海海戦勝利の立役者であった上に、「八八艦隊」の海軍予算編成について大隈総理から賛同を得たことから、向こう10年間の八八艦隊の建造予算が議会で認められた。

 しかしその後、建艦を含む軍事予算が増加の一途をたどることとなり、国務大臣の立場としては八八艦隊の編成に疑問を抱くようになっていた。その矢先、米国の提案で大正10年11月から、ワシントンで「海軍軍縮会議」開催の通知が来た。時の総理大臣原敬は会議に出席することを表明し首席全権に友三郎を選んだ。議会や新聞などでは軍縮会議に海軍大臣が出席することに反対意見もあったが、友三郎以外に適任者がいないと原総理の固い決断で決まった。

 会議では、日本の海軍力を米英の6割に抑えることが提案され、わが国の財政事情などから勘案して、6割案を了承して成功裏に終了した。(郷土史家=広島市)

(2023年7月26日朝刊掲載)

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