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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] ユダヤ人を助けた市民 人間としての行動 問うてくる 筑波大人間系障害科学域教授 岡典子さん

 ユダヤ人の迫害、抹殺を押し進めたナチスドイツ。潜伏や逃亡を助ける国民も罰した。それでも隠れ家や食料の提供など、ユダヤ人に手を差し伸べる人がわずかながらいた。ごく普通の市民だった彼らの姿を、筑波大の岡典子教授(58)が新著「沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い」に記す。他者を助ければ自分の身も危うい極限状況で、人間はどう行動できるか―。「現代の私たちに向けられた根源的な問いでもあります」と語る岡さんに聞いた。(論説委員・田原直樹、写真も)

  ―ユダヤ人を助けた人々がドイツ国内にいたのですね。
 ひそかな行動でした。ヒトラー暗殺を試みた軍人やナチスに抵抗した活動家には知られた人もいますが、私が着目するのは名もなき庶民たちです。戦後も長く知られてきませんでしたが「沈黙の勇者たち」として最近やっと、たたえられています。彼らの支援もあり、ドイツ国内で1万人以上のユダヤ人が潜伏生活を送り、約5千人が生きて終戦を迎えました。

  ―名前や支援活動の記録は残っているのですか。
 当時は非合法でしたから公的記録はありません。でも生き延びたユダヤ人の証言で一部の人の存在や活動が明らかになってきました。かくまったり、自分の身分証明書を渡したり。ドイツ全土に「沈黙の勇者たち」は2万人以上いたようです。本で紹介した、サンドイッチをこっそり渡すような、小さな善意の行動はもっとあったはずです。

  ―ユダヤ人はどのように収容所などへ移送されたのですか。
 ナチスは名簿を作って進めましたが、「効率」を上げようと住居や職場へ踏み込んでトラックに押し込むようになります。

 移送の順番が近いと察知したユダヤ人の中には潜伏や逃亡を決意する人もいました。家に戻らず、友人や同僚のドイツ人に助けを求めたのです。

  ―頼られたドイツ人は願いを聞き入れ、助けたのですか。
 多くの人は断ります。助ければ自分の身が危険だから。でも中には、同情して自宅にかくまって食料を分けたり、援助してくれそうな人を紹介したりする人がいました。そういう救援者に巡り会えたユダヤ人は幸福でした。でも双方にとって苦しい潜伏生活が始まります。

  ―ナチス支持の国民が大半の中で、ユダヤ人をかくまうのは大変だったでしょうね。
 密告社会ですから「隣の家にユダヤ人が潜んでいる」と通報され、逮捕された人もいます。

 当時、ドイツ国民の多くは、収容所に移送されたユダヤ人の運命を知っていました。そんなナチスに批判的な人、移送されそうなユダヤ人を放っておけないと思う人が行動したのです。そういう人々が情報交換する地下ネットワークもありました。

  ―その勇気に驚かされます。
 行動の原動力は、勇気とは少し違うと思います。勇気も必要でしょうが、自分の命はどうなろうとユダヤ人を守る―というのではない。捕まりたくない、家族を巻き込まないかも心配という葛藤が皆にありました。

 でも、ユダヤ人の迫害を見て見ぬふりはできない。やむにやまれず、自分にできる範囲で、精いっぱいのことをしました。密告やゲシュタポにおびえながら、一人一人が「そこまでは無理だけど、これはしよう」と。

  ―勇敢で信念の強い、特別な人だと思っていました。
 ごく普通の人です。資産家や知識層というのでもない。社会的弱者とされる障害者にもユダヤ人を援助する人はいました。

 障害者教育史が専門ですが、視覚障害のあるユダヤ人を、やはり目の見えないドイツ人が救おうとしたことを知り、研究してきました。人間が生きる姿や目的を考察、探求しています。

  ―「沈黙の勇者たち」に何を学べるでしょうか。
 いかに生きるかという問いへの答えです。極限状況のナチス時代、苦悩しつつ自分にできるユダヤ人援助に動いた市民の姿は、私たちの指標となるはず。現代にも差別や貧困があり、危機に直面した困窮者は少なくない。現実から目を背けず、自分ができることを考え、動く―。人間として生きることの意味を語りかけてくるようです。

■取材を終えて
 時代も状況も異なるが、苦しむ人の多い、生きにくい社会。見て見ぬふりをしていないか、人として生きているか。「沈黙の勇者たち」が問うてくる。

おか・のりこ
 埼玉県所沢市生まれ。桐朋学園大音楽学部卒。筑波大大学院心身障害学研究科博士課程単位取得退学。福岡教育大講師、東京学芸大准教授などを経て現職。専門は障害者教育史。著書に「視覚障害者の自立と音楽 アメリカ盲学校音楽教育成立史」「ナチスに抗った障害者 盲人オットー・ヴァイトのユダヤ人救援」など。

(2023年7月12日朝刊掲載)

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