×

社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 客員特別編集委員 佐田尾信作 戦後78年 「軍歴」という証人

記憶と語り よみがえる道を

 戦後78年、被爆78年の夏が来た。12年前に旅立った筆者の父親は18歳の時、海軍の一兵卒として広島で入市被爆し敗戦を迎えたが、存命でも96歳になる。「戦争の記憶」の継承は常に叫ばれてきたものの、その道はさらに狭く険しくなっていく。

 それでも人は記憶のよすがを求めるのだろう。昨年2月、志水祥介という相模原市の見知らぬ青年医師から1通の電子メールが届いた。広島市宇品に司令部を置いた旧陸軍船舶部隊(通称暁部隊)の機動輸送補充隊に属した大叔父志水南洲の消息を捜している、との趣旨だった。

 機動輸送補充隊とは揚陸舟艇の訓練部隊。跡地は徳山ボートレース場(周南市)になっている。南洲は帰郷した北海道で戦後事故死したため親族の間でも戦争体験は語り継がれておらず、祥介が最近厚生労働省に軍歴資料を照会したところ所属部隊が判明。これを手掛かりに調べを進め、陸軍水上特攻を取り上げた筆者の連載記事に同じ部隊名を見つけたという。祥介は昨年11月に広島や周南を訪れ、大叔父をしのんだ。

 「彼が原爆投下後の広島に向かった可能性も捨てきれません。そこで何を見たのか」。手掛かりは乏しいものの、解明を諦めてはいない。

 軍歴資料は恩給や年金、叙勲、被爆者健康手帳の取得などに必要とされる公文書。旧陸海軍の人事記録を引き継いだ厚労省や都道府県が本人や遺族の開示申請により交付する。「兵籍簿」という旧軍による手書き原票の写しはその一つである。

 軍歴資料が個人の証言を裏付けることもある。やはり暁部隊にいた東広島市の元酪農家大成玉光に昨年取材した際、原隊は「沖縄行き」もうわさされた潜水輸送教育隊(愛媛県四国中央市)だったが、潜水艦に乗らず「富山」や「徳島」に移動したという。親族が取り寄せた軍歴資料を防衛研修所戦史室(当時)編さんの戦史叢書(そうしょ)と照合したところ、大成は重要な港のある富山県高岡市や徳島県鳴門市で高射砲陣地を築く任務に就いていたことが分かった。

 100歳近い彼の話は時には脱線したりもするが、その記憶は大筋で正しかったことにほっとする。戦局の悪化によって沖縄の次の標的は本土だと、軍部が焦りの色を濃くする時代の流れが、一個人の書類に投影されていることが見て取れた。

 こんなケースもある。広島市東区のアマチュア映像作家土本誠治は、下松市笠戸島の実家に戦後長く眠る軍用行李(こうり)(荷物入れ)の持ち主を捜していた。「暁部隊の兵隊」の所持品と伝わるものの「田中茂」という行李の署名と宮崎県都城市の住所しか手掛かりがない。しかし昨年、本紙と宮崎日日新聞が報じたところ、遺族の所在が分かり、遺族の好意で田中茂の軍歴資料も判明した。

 出陣学徒の田中は陸軍輜重(しちょう)兵として当時満州国のハイラル(中国内モンゴル自治区)に送られた後、暁部隊に転属。周南の機動輸送補充隊に隣接する海上駆逐補充隊で「付近海面警備」に就き、敗戦を迎えた。島民の間に伝わる「兵隊さん」の証言が裏付けられ、この人もまた「本土決戦」態勢にいや応なしに動員されたことが想像できる。一方で軍需工場が集中していた徳山・下松への空襲や広島への原爆投下との関わりは軍歴資料では分からなかった。

 軍歴資料は原則非公開。申請できる遺族の範囲も限定されるが、世代交代が進む現状を考え柔軟に対応する都道府県もあるという。「『戦争体験』の戦後史」などの著書がある社会学者福間良明は個人情報の性格が持つ難しさを認めつつ「歴史的な事実の検証のため、親族に限らず誰もが都道府県の公文書館などで閲覧できるのが望ましい」と言う。

 筆者は昨年、父親の遺影を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録申請した。雑事にかまけた12年をひそかに恥じる。あわせて厚労省から取り寄せた軍歴資料を含め、わずか数枚の紙に収まる父の「戦争」。その記憶と語りが一人の人間の名において記録され、子や孫の世代によみがえることを切に願っている。(文中敬称略)

(2023年7月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ