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社説・コラム

『潮流』 読めなかった手紙

■報道センター社会担当部長 城戸収

 なんて大人びた文章だろう。徴兵された伯父の手紙を初めて読んだ時、驚いた。筆者は当時大学1年生。伯父が同じ年頃に家族へ宛てたものだった。祖母が亡くなった直後、たんすにしまっていたのを見つけた。

 先日、呉市の実家で30年ぶりに読み返した。「大津陸軍少年飛行兵学校」「広島西部第二部隊」などから出されていた。全てに「検閲済」の印がある。

 伯父は9人きょうだいの次男。文学青年で体が弱かったという。「おふくろを大切に」「体に気を付けろ」。手紙には家族を案じる言葉ばかり。幼かった筆者の父宛てには全て片仮名で遊泳時の注意点を説き、最後に「オトウサンヤオカアサマノイハレルコトヲヨクマモッテ ヨイヒトニナレ」。

 朝鮮半島に渡ってからの便りが唯一、消印を確認できた。終戦前年の1944年8月3日付。その後の消息は分かっていない。現在のミャンマーへ向かったとされる。「昭和20年9月10日戦死」との通知と石ころのような遺骨が届いた。享年23。「まどえ(償え)」。国の出先に怒鳴り込んだ祖母の姿が忘れられない、と父は言う。

 原爆の日、終戦の日が近づく。この時期に関連報道が集中するため「8月ジャーナリズム」との批判がある。忸怩(じくじ)たる思いはある。そうだとしても、戦争に向き合う夏が戦後日本の非戦の礎を成したと信じたい。

 筆者が年を取ったからか、手紙を大人びたと感じない。ただただ切ない。戦地に赴く青年の、家族を思う一言一言は遺言のようだ。一緒に読んでいた父が明かした。明治生まれの祖母は実は、字をほとんど読めなかったと。頭を殴られた気がした。読めないわが子の形見を、祖母はどんな思いで見つめていたのか。

 筆者の子らは当時の伯父と同じ年頃になった。8月、この手紙を伝えよう。祖母が大切にしていたことも。

(2023年7月27日朝刊掲載)

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