×

連載・特集

緑地帯 田辺良平 没後100年・加藤友三郎⑧

 海軍軍縮会議は友三郎の決断で成功裏に終了し、各国の間で彼の評価は広まった。彼を選んだ原敬総理という名宰相がいたことが友三郎には幸いした。

 大正11(1922)年3月米国から帰国した友三郎を待ち受けていたのは、総理大臣という大役であった。原総理暗殺後に就任した立憲政友会総裁の高橋是清は政友会内部の紛糾や憲政会との抗争で立ち往生しており、同年6月に内閣総辞職したのである。その後任にだれを推挙するかと検討されていたが、ワシントン軍縮会議の精神を実行できるのは友三郎をおいてほかに適任者がいないことから、21代目の総理に推挙された。政友会は賛成、憲政会は反対したが、貴族院や衆議院で多数の賛成を得て友三郎内閣は成立した。高橋内閣が瓦解(がかい)していなければ友三郎内閣の成立はなかったのだ。

 総理就任後は、いち早く軍縮を断行、軍事予算の削減分を文教費に回したほか、陸軍の縮小、シベリアからの撤兵、綱紀の粛正など思い切った政策を実行した。軍縮会議の成功でその後10年間は平和な世界となったのは歴史が示す通りである。しかし、平素からの胃腸病が高じて総理就任1年2カ月目の大正12年8月24日に逝去。彼の亡き後に海軍は軍縮賛成派と反対派に二分され、反対派が勢力を増したことで太平洋戦争に向かったが、友三郎ほどのカリスマ性のある人物が出なかったことも一因といえるのではないだろうか。(郷土史家=広島市)=おわり

(2023年7月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ