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連載・特集

ヒロシマを知らせる 50年前HACの情熱 <下> 保存と活用 日米で模索

整理と共有の機運に高まり

 米国オハイオ州ウィルミントン大の平和資料センター(PRC)に到着し、驚いたのは「資料の山」だったという。NPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(WFC、広島市西区)副理事長の服部淳子は、2月から1カ月ほど滞在した時の印象を語る。「知らせようという強い意志のもと、広島から資料を届けたのだと感じた」

 WFC創設者で米国の平和活動家バーバラ・レイノルズ(1915~90年)の提唱で開設されたPRC。かつて「ヒロシマを知らせる委員会」(HAC)が贈った原爆文献、バーバラが広島から持ち帰り寄贈したWFC草創期などの資料は今どうなっているのか―。それを確認するのが服部の主なミッションだった。

 「広島・長崎記念文庫」を備えたPRCは、75年に開設された。HAC解散後の事務を引き継いだWFCには、関連資料が数多く残る。双方に残る資料を照合すれば、被爆者に寄り添ったバーバラと被爆地市民の戦後の歩みが、より立体的に浮かび上がるはずだ。

交流ない時期も

 ところがである。広島側の資料は長く眠ったまま、忘れかけられていた。PRCも原爆より紛争解決などの資料収集に注力し、被爆地との交流が途絶えていた時期もあるという。

 潮目が変わったのは被爆70年が過ぎてから。PRCに現所長のターニャ・マウスが就任。「広島・長崎への原爆投下を通じて、核戦争が人類にもたらした経験を理解し、認識を高めるための米国の拠点」という原点に立ち返り、原爆資料の保全活用に再び力を入れ始めた。時をほぼ同じくしてWFCでも現理事長の立花志瑞雄らが中心となり、被爆地の戦後史や先人の歩みを掘り起こすプロジェクトを開始。資料整理と情報共有を進める機運が高まってきた。

空白埋める作業

 服部は広島側で欠落している資料などを米国で確認。内部共有について協議して帰国した。しかし空白を埋めていく作業は、緒に就いたばかりだ。

 一方のPRC。学生をはじめ研究者やアーティスト、メディア関係者ら年間400~450人がアーカイブを利用するという。「冷戦期の平和活動家たちが年を重ね、ここを彼らの資料の潜在的な保管場所とみなすケースも増えている」とターニャ。

 近年では地域の公共プログラムでもかつて広島から届けられた資料が活用されているという。その一つが地域から募った参加者が8月6日午前8時15分から半日、被爆者の詩や手記を読み続ける催しである。ターニャは「核兵器がもたらす人的被害や代償を理解しようとする人々のため、米国における核兵器廃絶運動の中心的アーカイブにしたい」と展望する。

 WFCは今、名誉理事長・森下弘が保管する膨大な資料の整理・調査も続けている。服部は「米国では核ミサイルが平和を守ってくれると考える人も多かった冷戦期に、バーバラと力を合わせて反核のために動いた人々の記録。現代の私たちも頑張って活用を考えないと」と力を込める。

 HACの歩みを記録する資料は草の根のヒロシマ戦後史の一断片である。そうした断片に、現代の被爆地はどう向き合うのか。半世紀前の情熱を伝える資料群は問いかけている。=文中敬称略(森田裕美)

(2023年7月27日朝刊掲載)

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