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被爆神父 世界から注目 広島で救護に奔走 スペイン出身アルペ氏 信者の運動実り 列聖調査

 自らも被爆しながら、負傷者の救護に奔走したスペイン出身のペドロ・アルペ神父(1907~91年)に、あらためて光が当たっている。カトリックで最高の崇敬の対象とされる「聖人」に準ずる「福者」の認定を目指し、ローマ教皇庁(バチカン)が被爆地での聞き取り調査を始めた。広島のカトリック信者たちが長年取り組んできた列聖運動が、ようやく前に進み出した。(桑島美帆)

 7月初旬、広島市安佐南区のイエズス会長束修道院に、米国ニュージャージー州から家族連れが訪れた。住田省悟神父(72)の案内で約1時間、アルペ神父が使っていたとされる部屋などを熱心に見学した。4月には、ポルトガルから約50人の巡礼団も訪れている。

 「列聖運動を通じ、アルペ神父の存在が全世界へ伝わっているのだろう」と住田神父。2019年のローマ教皇フランシスコの被爆地訪問や、5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)も追い風に、海外からの訪問者が増えているという。住田神父は「ウェブサイトなどで、長束修道院と神父に関する情報発信も考えたい」と話す。

 アルペ神父は、マドリード大で医学を専攻した後、1927年にイエズス会に入会した。宣教のため38年に来日し、42年、長束修練院(現長束修道院)院長に就任。3年後の8月6日、院内の自室で被爆した。

 爆心地から約4・5キロ。窓ガラスが砕け散るなどしたが倒壊を免れた。記録によると、しばらくして負傷者が押し寄せ、医学の心得があったアルペ神父は、不眠不休で修道女や近所の医師たちと救護に当たった。約100人を収容し、死亡したのはわずかだったという。

 幟町教会で被爆したフーゴ・ラサール神父たちを救出するため、6日夕刻から翌朝にかけて市中に向かい、残留放射線も浴びた。

 こうした足跡を海外や次世代へ広めようと、広島のカトリック信者が中心となり、90年代後半からアルペ神父の聖人化を求める運動を始めた。亡くなった2月に長束修道院の聖堂で列聖祈願のミサを行うほか、証言集を発行したり、胸像を建立したりしてきた。幼い頃、アルペ神父と出会った医師石田了久(あきひさ)さん(78)=安佐南区=もその一人。「何度か頭をなでてもらった。慈愛に満ちた方だった」と懐かしむ。

 昨年11月には、ローマ教皇庁列聖省から担当者3人が広島市内を訪れ、アルペ神父にゆかりのある人から証言の聞き取りも始めた。調査は2018年7月、教皇庁が開始を発表したが、新型コロナウイルス禍で来日を延期していた。

 イエズス会列聖委員会の日本の窓口を務める平林冬樹神父(72)によると、手続きを進めるには約120人の証言を集め、膨大な書類を作成する必要がある。関係者の高齢化が進み、広島調査で集めた証言は6人だった。広島司教区の白浜満司教(61)は「アルペ神父が尊者になれば、核兵器廃絶を求める広島市民、教会の力にもなる。実現へ向け、できる限りのことをしていく」と力を込める。

「他者のために生きる」信念の人

イエズス会 長束修道院 塩谷恵策神父(83)に聞く

 上智大の学生だった1960年前後に、イエズス会日本管区長だったアルペ神父と出会った。「カトリック学生の会」に招き、講話を聞いた。「愛の火を全世界に燃やしなさい」と言われたことを覚えている。

 64年には、アルペ神父の許可を得てイエズス会に入り、黙想の指導も受けた。常に穏やかな笑みを浮かべ、聖なる雰囲気をまとった人だった。

 アルペ神父の教えに「他者のために生きる」という言葉がある。利己的にならず、人のために尽くす、というこの教えは、平和な世界の創造にもつながる。被爆直後、神父が負傷者を受け入れ、ほとんど寝ずに治療に当たったのは、その信念があったからだろう。

 晩年は、紛争などで祖国を追われた難民の救済に力を注いでいた。称賛を浴びることを望まない方だったので「聖人として認められることを求めていないのでは」と感じることもある。

 ロシアによるウクライナ侵攻が続く今、核兵器が脅しの材料に使われている。言語道断だ。列聖運動は、アルペ神父の名誉のためではない。核兵器廃絶、難民救済、という神父の願いに人びとが関心を持ち、世界がその方向へ進むきっかけとなるはずだ。

(2023年7月31日朝刊掲載)

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