×

ニュース

刻む 中国出身留学生の8・6 原爆死没者名簿登載 奉納へ

 広島大前身の文理科大・高等師範学校に中国大陸や東南アジアから留学して被爆した人の名前が、広島市の原爆死没者名簿に登載される。「南方特別留学生」8人の被爆は語られてきたが、中国出身者は顧みられることも乏しかった。少なくとも12人が被爆し、6人が原爆死していた。市は未登載だった計15人(うち「南方」7人)を記し、8月6日の平和記念式典で奉納する。広島大の調査に協力して登載申請に至った中国留学生の被爆実態を報告する。(元特別編集委員・西本雅実)

表のPDFはこちら

 1945年8月6日当時、中国からの留学生はどれだけいたのか。今回、文理科大・高師が43年4月に作成していた「外国学生生徒名簿 満州国(三十四名)」の写しが市公文書館にあるのが分かった。市71年発行「広島原爆戦災誌」の編さん関係者が、東京の善隣学生会館(現・日中友好会館)の倉庫で見つけ複写を送っていた。

 日本の関東軍が中国東北部で32年につくり支配した「満州国」は、日米開戦の41年も1256人の留学生を送出。教育者の育成も図ろうと東京高師や奈良女子高師、広島文理科大・高師の在学生を官費にした。

 34人の各下宿先も記された名簿の欄外には44年末までの追記が残る。過半数が「休学」「帰国」「除籍」だ。戦況の悪化から「満州国」は帰国を促し、日本政府は同年12月に「留日学生教育非常措置要綱」を決めて地方疎開を打ち出す。

 広島を離れる留学生が増える一方、疎開を兼ねた入・転学もあった。関連資料を突き合わせ、名前や被爆を確かめることができた中国出身者は12人を数えた。

 生き残った人たちの手記や証言を集めると、広島に親族がいない被爆留学生は救護も助け合っていた。日本に戦後もとどまった朱定裕さんは、旧厚生省が95年被爆者実態調査で募った体験記にこう寄せていた。

 「仲間と合流が出来た。(文理科大実験室から)大八車に乗せられ、己斐にある満州国留学生を世話する長谷信夫先生の自宅まで運んで貰(もら)った」。体験記は、東京高師から45年6月に移り、東南アジアからの留学生と一緒になった「興南寮」舎監の追悼で結ぶ。47歳で原爆死した高師の永原敏夫教授である。

 中華人民共和国が49年に誕生すると東京にいた4人は順次戻った。だが、日中国交正常化は72年までかかり文化大革命の混乱もあって、健在や検診の願いをつづった手紙が広島の知人に届くのは76年となる。

 その由明哲さんは王大文さんと広島県議会日中友好議員連盟の招きで81年、広島を再訪。被爆者健康手帳の申請に県は当日交付で応じた。しかし出国すれば援護は失権するとした旧厚生省通達の違法性をメディアも当時は見過ごしていた。

 在韓被爆者が起こした訴訟で敗訴した国は2003年に通達を廃止する。翌04年、王大文さんは広島国際文化財団の助成で訪れ、被爆者健康管理手当を申請し支給を得た。文革中は「日本のスパイ」とまで攻撃された初慶芝さんは「足が衰え…」と渡日を諦めた。現在、健在かどうかは広島市もつかんでいない。

 広島大は6月の登載申請に際し、中国からの留学生は健在や不明の3人を除く9人を申請。市は、19年死去の通知があった朱さんは既に記していた。「南方」は登載があったマレーシア出身のサイド・オマールさん(45年9月3日死去)を除く7人を名簿に記す。

 日中の研究者でつくる「中国人留学生史研究会」を担う神奈川大の孫安石教授は、「日中両国の険しい関係から登載が政治的に捉えられる恐れもあるが、追悼は人道的なもの」といい、「原爆・戦争被害は日本人だけではないことを見つめる声や行動が広がることも期待したい」と話した。

(2023年7月31日朝刊掲載)

年別アーカイブ