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遺品 無言の証人

[無言の証人] 裁縫用へら 大やけどの父に薬塗る

 象牙でできた裁縫用のへら。本来は布地に印や折り目を付けるのに使う道具だが、先端部分に白い何かが固着している。使っていた主は、長く原爆資料館(広島市中区)で被爆体験証言者として記憶を語り続けた渡辺美代子さん(2015年に85歳で死去)。大やけどを負った父親の体に、薬を塗るのに使っていた。

 渡辺さんは市立第一高等女学校(現舟入高)3年生の時、爆心地から約2・5キロの自宅で被爆した。出かけようと外に出たものの、日傘を取りに戻ったため、大きなけがは免れた。当時44歳だった父・幸治郎さんは建物疎開作業先の千田町(現中区)で被爆。2日後、運ばれていた似島(現南区)で家族と再会した時は顔から足まで身体の前面に大やけどを負っていた。

 渡辺さんはいつも首に下げていた救急袋からへらを取りだし、白い「亜鉛華軟こう」をかき混ぜて幸治郎さんに塗った。あおむけに寝たままの父のうみを取り、薬を塗るのが日課だったそうだ。

 幸治郎さんの体にはハエがたかり、しきりと水を欲しがった。やけどのうみで「すごいにおいがした」という。介抱のかいなく、被爆10日後、「寒い…」と言って亡くなった。

 へらは2002年夏、渡辺さんが自宅を整理していて見つけた。薬が付いた当時のままの状態。「自分のような体験はもうごめんという父からのメッセージだと思う」と、渡辺さんは薬を塗り始めたのと同じ8月8日、資料館に寄贈した。(森田裕美)

(2023年7月31日朝刊掲載)

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