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空白半世紀 原爆の歌 姉失った廿日市の西田さん

父と母の背や胸の火傷に湧く蛆(うじ)を箸で捕りたり夏がまた来る

被爆地軽んじられ憤り

 姉を奪い、両親を傷つけた原爆を、半世紀余の空白を経て再び詠み始めた人がいる。廿日市市の歌人西田郁人さん(88)。中高生の時には惨状を詩にし、短歌に詠んでいたが、その後は「生半可な気持ちで原爆は詠めない」と遠ざかっていた。むき出しの言葉で原爆のありのままをうたう西田さん。自身の禁を解いた裏側には核兵器廃絶が進まず、被爆地が軽んじられる憤りがあった。(衣川圭)

 西田さんは11歳の時、現在の広島市安佐南区東野の国民学校で原爆を見た。赤く渦巻く雲が落ちてきそうで、頭を手で隠して家へ走った。家畜に荷車を引かせて建物疎開の作業に出た両親は寺町(現中区)で被爆。北に逃れる人を荷車に乗せて帰ってきた。「じゃあね」と別れた姉の千津枝さん=当時(17)=はその日、戻らなかった。

 血みどろで真っ黒だった母親は、避難する人にトウモロコシやジャガイモを持たせ「生きるんだよ」と声をかけていた。2日後、両親の肩や背中にうじがはった。「それを妹と箸で取ってやるんよ。箸が体に当たると『痛い、痛い』と言ってね。生き地獄よ」

 姉は京橋川で救出され、広島駅近くの練兵場にいた。母が家に連れて戻ったのは8月9日。顔はきれいだったが、胸に深い傷を負い、しきりに水を欲しがった。水を飲むと死ぬと言われていたため、妹と井戸に向かう姉を通せんぼした。その夜、亡くなった。

 ≪真はだかのまま井戸水飲みに走る姉に泣きながら遮る妹とふたりで≫

 「思いきり飲ませてやりたかったね」と長く胸の奥に抱えた痛みを歌に込める西田さん。

 中高校生時代にも姉との別れや被爆の惨状を詠んだ。高校2年の時に書いた詩は、峠三吉が1952年に編んだ詩集「原子雲の下より」に収録されている。「原子爆弾 その言葉こそ 全人類の破滅のことばだ」と結ばれたその詩には原爆への怒りがにじむ。

 高校卒業からしばらくして上京し、20代半ばで短歌雑誌「心の花」を発行する「竹柏会」に参加した。だが原爆は詠まなくなった。被爆した先輩歌人の作品に触れるにつれ、幼い体験を表現することにためらいが出た。歌にしない葛藤はあったが「原爆は軽んじて詠んだらいかん」と思った。

 広島に戻った後、米国のオバマ元大統領が広島を訪れた2016年ごろから生々しい歌が増えた。原爆ドームを見下ろすビルで、ガムをかみながら寝そべる人を見て悔しさが込み上げた。「原爆の『本当のこと』が忘れ去られるという気持ちが強くなってねえ」

 両手から皮膚を垂らしてさまよう被爆者の人形を原爆資料館(中区)で展示しなくなったのは不満だった。衆院選で被爆地の候補者が核兵器禁止条約について触れないのも納得できなかった。ことし広島市であった先進7カ国首脳会議(G7サミット)は、ウクライナへの兵器供与の場所に使われたように感じた。

 西田さんは言う。「近くの河原でたくさんの死体が焼かれてね。被爆者が実際に見た光景や気持ちを自分たちが詠まないといけないと思うんです」。原爆を直接知る人が減る今、78年前の真実を言葉にすることを大切にする。

(2023年7月29日朝刊掲載)

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