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「水を…」無念伝える水筒 広島で被爆 当時陸軍所属の故新井さん保管 手帳には体験を記録

 「水求む子等の顔はあはれなり」―。78年前、原爆の犠牲者に末期の水を含ませた水筒が残っていた。陸軍船舶司令部(通称暁部隊)の幹部候補生だった青年の物で、救えなかった命を悼み、広島の惨状を手帳にも書き残している。肩ひもが付いた焦げ茶の水筒はつやを保ち、あの日を無言で伝える。(宮野史康)

 青年は船舶通信隊補充隊所属の新井好雄さん(2021年に96歳で死去)。埼玉県出身の当時19歳。表紙に「暁」とだけ記した手帳の黄ばんだページに、入隊後3カ月半で迎えた8月6日の記録を克明につづっている。

 前夜に空襲警報で駆り出され、広島市皆実町(現南区)の兵舎にようやく戻り、朝食を終えて就寝したところだった。午前8時15分、爆心地から約2・2キロ。ごう音とともに2段ベッドから廊下に吹き飛ばされ、階段を転げ落ちた。

 大破した兵舎を抜け、近くの比治山の「洞窟」で負傷者の救護に当たる。そこで「正に地獄絵」を見た。「衣服は焼け、裂け、髪も焼し、露出部は光線による火傷で赤く焼けただれて居る」「泣き声。ウメキ声。兵隊さん水おくれと云(い)ふ子供の声」…。

 水を求める人々が、携えていた水筒にしがみつく。そして、与えると息絶えていったという。「上官に飲ませると死ぬと言われ、水を捨てたそうです」。生前に当時の状況を聞いた長女の美知子さん(65)=東京=が振り返る。

 戦後、新井さんは東京で水道設備の会社に就職。1954年に結婚し、1男2女に恵まれた。転居を重ねる中でも、惨禍の記憶を刻む金属製の水筒を「大切なものだから」と新聞紙で幾重にもくるんで保管していた。

 美知子さんは「助けられず、水もあげられなかった無念さから、残していたのでしょう」と推し量る。昨年8月に、新井さんの遺品となった水筒と手帳を原爆資料館(中区)に寄贈した。「父の見た戦争の悲惨さ、恐ろしさに触れ、心が動く人が一人でもいればありがたい」と語る。

 新井さんは手帳に、原爆で重傷を負った16歳の少年兵を介抱した際の心境も刻んでいる。「斯(か)くも幼き者が軍閥どもの手に依り狩り出され 好むと好まざるとにかかはらず 死への行進をつづけて居りし事は 真に悲惨」。青年の戦争への嘆きがにじむ。

(2023年8月1日朝刊掲載)

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