被爆米兵 たどった足跡 広島の森さん 柳井で半世紀の調査語る 犠牲12人 記録掘り起こし
23年8月2日
太平洋戦争末期、米軍の爆撃機が柳井市伊陸(いかち)などに墜落し、米兵が収容先の広島で被爆死した史実を調べている広島市西区の被爆者森重昭さん(86)が、約50年にわたる調査の歩みを伊陸で語った。住民たちに「時間がたっても忘れずに、原爆の恐ろしさと平和の大切さを伝え継いでほしい」と望んだ。(山本祐司)
78年前にB24爆撃機が墜落した7月28日、米兵の遺族と森さんの交流を追ったドキュメンタリー映画「ペーパー・ランタン(灯籠流し)」の上映会に合わせ、会場の伊陸公民館を妻佳代子さん(81)と訪れた。
自らも広島で被爆した森さんは、捕虜となった後に「行方不明」のまま米軍に放置された米兵の存在を知って心を痛め、調査を始めた。出撃記録から広島で12人の米兵が原爆の犠牲になった事実を掘り起こし「まさに苦闘という言葉が当てはまるぐらい努力した」と当時を振り返った。
伊陸に来ては爆撃機の破片を探し、住民の証言を聴き取った。広島から東京へ移送されて助かった元機長のトーマス・カートライトさん(2015年に90歳で死去)と手紙のやりとりを重ね、来日した時には一緒に伊陸を訪れることができた喜びも明かした。
16年に広島市を訪れたオバマ米大統領(当時)と抱き合ったことについて、佳代子さんが「根気よく諦めずに調べたことで、あのポーズになったのだろう」と思いを代弁した。
会場では子どもたちを含む約100人が森さんの話に耳を傾けた。小学生の時、映画に登場した近くの広島修道大2年角田康輔さん(20)は会場で、ロシアがウクライナを侵攻するなど今なお戦争と核兵器の脅威は絶えないと意見を発表。「平和は常日頃から考えないといけない問題。自分たちに何ができるか、情報を集め、伝え方を模索したい」と決意を新たにしていた。
柳井市伊陸に墜落した米軍機
1945年7月28日、沖縄県の読谷飛行場を出発した米軍のB24爆撃機ロンサムレディー号は、呉沖に停泊中の戦艦榛名を攻撃後、対空砲火を浴びて山口県伊陸村(当時)に墜落した。乗組員9人は脱出したものの、捕虜として広島市の中国憲兵隊司令部に収容された6人は、米軍が8月6日に投下した原爆の犠牲になった。
(2023年8月2日朝刊掲載)
78年前にB24爆撃機が墜落した7月28日、米兵の遺族と森さんの交流を追ったドキュメンタリー映画「ペーパー・ランタン(灯籠流し)」の上映会に合わせ、会場の伊陸公民館を妻佳代子さん(81)と訪れた。
自らも広島で被爆した森さんは、捕虜となった後に「行方不明」のまま米軍に放置された米兵の存在を知って心を痛め、調査を始めた。出撃記録から広島で12人の米兵が原爆の犠牲になった事実を掘り起こし「まさに苦闘という言葉が当てはまるぐらい努力した」と当時を振り返った。
伊陸に来ては爆撃機の破片を探し、住民の証言を聴き取った。広島から東京へ移送されて助かった元機長のトーマス・カートライトさん(2015年に90歳で死去)と手紙のやりとりを重ね、来日した時には一緒に伊陸を訪れることができた喜びも明かした。
16年に広島市を訪れたオバマ米大統領(当時)と抱き合ったことについて、佳代子さんが「根気よく諦めずに調べたことで、あのポーズになったのだろう」と思いを代弁した。
会場では子どもたちを含む約100人が森さんの話に耳を傾けた。小学生の時、映画に登場した近くの広島修道大2年角田康輔さん(20)は会場で、ロシアがウクライナを侵攻するなど今なお戦争と核兵器の脅威は絶えないと意見を発表。「平和は常日頃から考えないといけない問題。自分たちに何ができるか、情報を集め、伝え方を模索したい」と決意を新たにしていた。
柳井市伊陸に墜落した米軍機
1945年7月28日、沖縄県の読谷飛行場を出発した米軍のB24爆撃機ロンサムレディー号は、呉沖に停泊中の戦艦榛名を攻撃後、対空砲火を浴びて山口県伊陸村(当時)に墜落した。乗組員9人は脱出したものの、捕虜として広島市の中国憲兵隊司令部に収容された6人は、米軍が8月6日に投下した原爆の犠牲になった。
(2023年8月2日朝刊掲載)