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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 映画祭で語り継ぐ戦争 時代の記憶 作品で共有できる 昭和文化アーカイブス代表 御手洗志帆さん

 東京で戦争や原爆をテーマにした映画祭を2012年からたった一人で企画し、開催し続ける女性がいる。広島市西区出身で一般社団法人の昭和文化アーカイブス代表、御手洗志帆さん(35)だ。この9~11日にも「戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭」を都内で開く。映画を通じた継承の意味を聞いた。(論説主幹・岩崎誠、写真・河合佑樹)

  ―ことしで12回目。ものすごい熱意ですね。
 東京の短大を出てバイト暮らしの23歳の時、新藤兼人監督の「原爆の子」を初めて見て「これだ」と思ったのが、きっかけです。被爆7年後の広島が舞台で、一家の大黒柱がいなくなるなど原爆が後々まで一つ一つの家庭に影響を与えることを実感しました。小学校の平和学習で被爆者の証言を聞くなどしていて「みんなに伝えたい」「知ってほしい」と作文に書きましたが何もしないまま。上京して原爆が何も知られていないのにショックを受けていました。映画の力を通じた継承なら私もできると思ったのです。

  ―どう行動したのですか。
 「新藤兼人映画祭」をやりたいと事務所に一人で持ちかけました。監督はご存命で、100歳を祝う行事として企画が進むうちに亡くなり、急きょ追悼の映画祭の形になりましたが素人がいきなり始めたものですから、大赤字に。もうやめようと思いました。でも「キャタピラー」の若松孝二監督が続いて死去し、戦争の記憶をつなぐ映画文化が風化するのでは、と気になって翌年からも続けました。

 毎年、悩みながら平和を考える映画の上映や監督、俳優のトークを企画しています。上映準備、劇場との交渉など全て一人でやってきたので、持続可能な母体として一般社団法人を20年に設立し、各地の小さな戦争の記憶も伝えていける映画祭にしたいと、現在の名称にしました。

  ―開催を通じて、人の輪が広がったでしょう。
 16年に吉永小百合さんに来ていただいたのも転機でしたね。母校、安田女子中高の縁です。かつて生徒の前で原爆詩を初めて朗読したことを覚えていて、出演依頼の手紙に書いた私の出身校に目が留まったそうです。それから著名な方にも来てもらえるようになり、21年に大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館」を上映した際には常盤貴子さんたちも出演し、監督の平和への思いを語り合いました。

  ―新型コロナウイルス禍も乗り越えたのですね。
 戦後75年を迎え、リセットして頑張りたいと思ったところでした。一度やめたら終わると思い、意地でも開催しました。感染対策は大変でしたが文化庁の助成金もあって、何とか続けられました。昨年は泣く泣く中止した平和コンサートを、ことしは音大生に声をかけて実現させます。またプログラムの一つ、宝田明さんの追悼トークには生前、共演した乃木坂46の岩本蓮加さんも出てくれます。映画祭の年齢層は高く、若い人を呼び込んで戦争と平和を考えてもらうのが課題ですから。

  ―映画祭と別に、仕事でも原爆と向き合ったとか。
 映画祭を続けるうち25歳でテレビ朝日系列の報道専門の映像制作会社に入りました。「ピカドンは聞き飽きた」と言われましたが粘り強く企画し、母校の犠牲者315人を追う番組を形にしたのです。昨年11月に広島でも映画祭を開いて上映しています。

  ―今後の目標は。
 21年に結婚して札幌に移住し、1児の母です。北海道で広報や制作の仕事をしていますが、来年以降も東京で映画祭は続けたい。かつて映画という娯楽の中に戦争があり、映画人も競って描こうとしてきました。赤字でもやることが使命だった空気はもうありません。しかし新作でなくても魂のこもる作品を掘り起こして上映すれば、当時の空気感を共有できると思います。継続に向けたクラウドファンディングも始めました。

 まだ構想段階ですが高校生や大学生が自分たちの地域の戦争を学び、記憶をつなぐ映像作品を全国から集めて発表し合い、グランプリを決める映画祭も開催できれば。東京もいいですが広島でやってもいいと思い始めています。

みたらい・しほ
 安田女子高、青山学院女子短大卒。2012年に新藤兼人映画祭を立ち上げ、20年昭和文化アーカイブスを設立して戦争の記憶と記録を語り継ぐ映画祭を主催。東京の映像制作会社フレックス在籍中の17年に母校の原爆被害のドキュメンタリー番組を制作した。札幌市在住。

(2023年8月2日朝刊掲載)

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