×

連載・特集

緑地帯 西村すぐり 家族の戦争体験を残す②

 昭和19(1944)年、若い男の先生が召集されて戦地へ行き、国民学校の教員が不足した。国民学校は現在の小学校と、中学2年までにあたる高等科が付属していた。

 女子が教員になるには、高等女学校を出て教員養成のための女子専攻科へ進む。現在の大学にあたる。本来3年制だが、この年、国民学校の教員に限って1年で修了するコースができた。母が高等女学校を卒業する年だった。

 母は高等女学校に新設された1年制の専攻科に進んだが、学業は半年に短縮され、国民学校での2週間の教育実習のあと海軍工廠(こうしょう)へ学徒動員された。昭和20年4月、辞令を受けて17歳で口田国民学校の代用教員となった。現在の広島市安佐北区の口田小学校だ。4カ月後、終戦を迎える。戦後処理にやってきたアメリカ軍の検閲によって、教科書は墨で不要箇所を消すよう指示された。母は、子供たちの教科書に墨を入れさせる指導をしなければならなかった。

 「私はなにをやっているのだろう」。母は真っ黒になったページをめくりながらぼうぜんとした。そんなとき、戦地から戻り教員に復帰した同僚が声をかけてくれた。大学を出たばかりの時に召集された若い男の先生だった。「もう一度勉強をしなおすべきだよ」

 ちょうど、広島に女子専攻科が新設されることになった。のちの鈴峯女子短大だ。母は、「一も二もなく退職」して昭和21年4月、学生にもどったそうだ。昭和24年春に卒業。そして、新しくなった教育制度のもと、小学校の教師となった。(児童文学作家=広島市)

(2023年8月2日朝刊掲載)

年別アーカイブ