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連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <2> 生と死

原爆の翌日 弟を亡くす

  1939年、広島市西区の己斐橋近くにある家で6人きょうだいの次男として生まれた
 8歳上の姉以外は、みな男です。4歳上だった長男は自分が生まれる直前、腸チフスで亡くなった。だから自分が長男みたいな役目をしてきました。自分も生まれつき病弱で2歳から5歳までは、毎年夏は入院していました。4歳の時、医者から「この子は諦めてください」と宣告されたこともあったみたいです。だから、親は教育するというより、かわいがる気持ちの方が強かったようです。

  6歳の時に1945年8月6日を迎える
 あの日は母、4歳の弟、病気で寝ていた2歳の弟と自宅にいました。父は建物疎開で市役所に出ていて、中学生だった姉も不在でした。原爆が落ちた後、父の実家があった佐伯郡の河内村(現広島市佐伯区)へ大八車に乗って避難しました。父は遅れて実家へ戻ってきました。中学生だった姉は行方不明でしたが、4日後ぐらいに無事が分かりました。原爆が落ちた次の日、自分の目の前で2歳の弟が亡くなりました。「お父さんとお母さんは何しよったんやろ」。死んだ弟を見て、そんな気持ちになりました。母は「(弟は)病気だった。病院の先生が入院させてくれたら、死なんで済んだのに」と生前、よく言っていました。

  今も8月6日になると、自宅で亡くなった弟に思いを寄せる
 6歳で人の死に目を見たから強烈です。僕はあの日は一人、静かに線香をたいて弟を弔いたい。式典もありますが、一人静かに過ごしたい遺族がいるのも知ってほしいと思って生きてきました。

 弟が亡くなってから1カ月後、悲しみに暮れる迫田家に新しい家族が誕生した。広島商と新庄を甲子園に導いた五男守昭氏だ  4歳で亡くなった兄、2歳で亡くなった弟は名前に「あき」という音が入っていなかった。だから、両親は「この子は早く死んだらいけん」と名前に「あき」という音を入れたんです。自分も守昭もこの年になっても元気に野球に携われている。感謝ですね。

(2023年8月2日朝刊掲載)

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