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被爆死の本社員「形見」現存 「原爆報道続けて」 親族が寄贈 八月六日勤労奉仕ノ為 出勤セシ事ヲ証明ス

 1945年8月6日に広島原爆の犠牲となった中国新聞社員、桑原玉江さん=当時(20)=が建物疎開作業に出ていたことを明記した本社発行の証明書が残されていた。弟の郁人さん(2012年に死去)が、遺骨も見つからない姉の形見として大切にしていた。一枚の紙片は、社員の約3分の1に当たる114人を失った報道機関の壊滅的被害を伝える「証人」でもある。(新山京子)

 「八月六日建物疎開勤労奉仕ノ為(ため)廣島市水主町(ひろしましかこまち)ヘ出勤セシ事ヲ証明ス」。手のひらほどの「証明書」は45年9月24日付。中国新聞社の社印とともに「向洋」の「東洋工業」(現マツダ)と記される。爆心地から約900メートルの社屋が全焼して混乱極まる中、一部業務を東洋工業に移していた時期だ。遺族が市役所でこれを提示し、死亡の届け出をしたとみられる。

 郁人さんが亡くなってからは長男の秀夫さん(65)=広島市東区=が保管してきた。「玉江さんが存在していた証しだったのでしょう。生前に見せてくれたことはありません」。遺品整理で偶然見つけた。社印が押された「検視調書」もあったが、書かれた経緯ははっきりしない。

 玉江さんは母チカノさんと2歳違いの郁人さん、妹弘行さんとの4人家族だった。配属は工務局文選課。記事を組むのに欠かせない、漢字や仮名の鉛活字を棚から抜き出す作業を担っていた。

 戦時体制だった78年前のあの日、広島駐在の新聞・通信社による「中国新聞社国民義勇隊」の一員として建物疎開作業のため元安川右岸にいた。現在の平和記念公園(中区)の南側だ。中国新聞社員は「45人」との証言がある。爆心地から約500メートル。玉江さんを含め、全滅した。

 桑原さん一家では、弘行さんも学徒動員で即死したとみられ、行方不明のまま。チカノさんは白島町(現中区)で大けがを負った。郁人さんも広島駅で被爆した。家族には何も語ろうとしなかった郁人さんだが、中国新聞労働組合が87年に実施した聞き取りには応じ、「母は息を引き取るまで姉の消息を気にかけていた」と証言している。

 秀夫さんは玉江さんの生家で暮らし、在りし日の写真を保管している。現在の広島三越(中区)の場所にあった本社屋上で写る姿は、どれも笑顔だ。「写真でしか知らない伯母の供養を」。数年前から、玉江さんらが被爆した地の近くに立つ「原爆犠牲新聞労働者の碑(不戦の碑)」で原爆の日に開かれる碑前祭に参列している。

 さらに、このほど中国新聞社に証明書と検視調書を寄贈した。社員の原爆犠牲に関する当時の書類は社内に残っておらず、被爆地の報道機関の原点を伝える貴重な資料。秀夫さんは記者に語った。「原爆について報道し続けてください。伯母のような犠牲者を、二度と出さないために」

(2023年8月2日朝刊掲載)

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