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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 宮崎智三 原水禁世界大会分裂60年

「いかなる国」問題の愚 教訓に

 誰が持っていようが、核兵器は核兵器であり、人道に反するという本質は何ら変わらない。だからこそ、どんなに気にくわない相手でも使うことは許されない。

 原爆の惨禍を身をもって知る広島、長崎にとっては、当たり前のことだ。決して譲ることのできない被爆地の原点でもある。

 ところが、ここ広島でも、その原点を踏みにじる動きは起きる。

 60年前の8月。必要悪だと認められる核兵器があるかのような主張が幅を利かした。核兵器は全てなくせとの被爆地の声はかき消され、混迷の中で原水爆禁止世界大会は平和記念公園で始まった。

 「いかなる国の核実験にも反対する」。当然としか思えないことに反発する人たちの存在が、分裂の火種になった。

 大会では、運営を任された広島県原水協の森滝市郎代表委員(当時)が基調報告で被爆地の思いを訴えた。対立をあおりかねない「いかなる国」という言葉は避け、「どこの国のどんな核実験、核武装にも絶対に反対と叫んできた」と。しかし報告は事実上無視された。

 共産主義国であるソ連の核兵器は防衛目的で、真の敵は米国の帝国主義だ―。そんな考えを持つ人たちが、大会の主導権を握り、ソ連の核実験には反対しない姿勢を崩さなかったからだ。森滝さんをはじめ被爆地の考えとの溝は、以前にも増して深まり、大会はおろか、運営組織も分裂した。

 広島の訴えが踏みにじられた当時の様子を現地で取材していた大江健三郎氏は「ヒロシマ・ノート」に、つづっている。われわれを、ますます疲労困憊(こんぱい)させ、憂鬱(ゆううつ)を深刻にするものだった、と。

 歴史は繰り返すのか。今年も広島で、必要悪の核兵器があると言わんばかりの動きが見られた。

 先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)で出された「広島ビジョン」である。核軍縮に特化した文書をG7サミットが出したのは初めてで、その意味は重い。核兵器のない世界を究極の目標として掲げた点も評価できる。

 しかし「核兵器は防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し…」と核抑止論を認めている。その点で、被爆地の長年の訴えとは全く相いれない。G7内の米国や英国、フランスの核兵器についても事実上、不問に付している。

 ロシアや中国の核政策を非難しているのとは対照的だ。もちろんウクライナに侵攻し、核兵器の使用までちらつかせるロシアのプーチン大統領の態度は言語道断である。核戦力増強を加速させている中国も、地域の緊張を高めており、見過ごせない。

 北朝鮮を含め、専制国家の持つ核兵器は、使われるリスクがより高いのは確かである。自己中心的になりがちで、全人類的な視点を欠く指導者の下す判断は、必ずしも理性的だとは思えない。

 ただ、だからといって、西欧民主主義国の持つ核兵器を免罪するわけにはいかない。非人道的という核兵器の本質は、どこの国が持とうが同じだからだ。

 G7が核なき世界を真剣に目指すのであれば、中ロなど他の保有国を巻き込んで、行動で示すべきである。敵の核攻撃を受けない限り核兵器を使わないとする「先制不使用」や、核兵器を持っていない国への核攻撃はしないと宣言することなど、できることはある。

 世界には今、核兵器を持つ国が九つある。そのうち、インドを含む4カ国の首脳が広島サミットで被爆地に足を踏み入れた。短時間ではあったが、原爆資料館も訪れた。被爆地の歴史に一ページを刻んだのは間違いあるまい。

 とはいえ、目指すゴールはまだ遠い。「いかなる国」問題を巡る愚を繰り返さないため、被爆地の原点である、核と人類は共存できないことを思い起こしたい。

(2023年8月3日朝刊掲載)

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