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連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <3> ガキ大将

遊びでも考えてプレー

  ≪野球との出合いは、己斐小2年生のときだった≫
 疎開していた河内村(現広島市佐伯区)から戻ってきたのは小学校に入る直前。原爆が落ちたけど、己斐橋(西区)近くにあるおふくろの家は、壁がゆがんだぐらいで無事に残っていました。野球を始めたきっかけは、大人たちが太田川の河川敷でやっていたのに、交ぜてもらったことかな。「上手じゃないか」と褒められて、その気になりました。(後に広陵、京都外大西などで監督を務めた)三原(新二郎)は1学年下で、小学と中学は同じ。一緒にやっていました。

  ≪物資不足の時代。野球道具は全て手づくりだった≫
 ボールはビー玉を綿で包んだものに、家が背広の仕立屋だったからその端切れを丸めて作りました。バットは、小学校の裏山の木を切って削ったのを使いました。みんなほとんどはだし。野球のスパイクを初めて履いたのは、高校に入ってからでした。

  ≪授業が終わると、日が暮れるまで運動場で野球に明け暮れた≫
 自宅は1階が仕事場。家に帰ると仕事をしている父に「勉強してきます」と2階に上がってそのまま、屋根伝いに隣の家に渡り、学校へ行っていました。帰りはその逆。隣の家から自宅の2階に上がって、何食わぬ顔をしていました。隣の人には「うちの屋根を壊さんでくれよ」とよく怒られたもんです。勉強していないのに気付いていただろうに、親には何か言われた記憶はありません。おおらかな時代でした。

  ≪上級生になると、チームの中心選手だった≫
 小学校の中で対抗戦みたいなこともしていたし、土、日曜になると古江(西区)までみんなで歩いて行って、子ども同士で試合をしていました。打てない子でもバントの構えをして相手を揺さぶったり、小さく構えて四球を選ぼうとしたり。遊びとはいえ、勝つためにはどうすればいいのか、子どもなりにいろいろ考えてプレーしていました。そのときの考える癖が、その後の野球人生に役立ったのかどうかは分かりませんけどね。

(2023年8月3日朝刊掲載)

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