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連載・特集

ゲンと私と 「はだしのゲン」連載開始50年 <1> 八幡照子さん(86)=広島県府中町

 週刊少年ジャンプでの連載開始から50年を迎えた中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」。原爆で家族を失った少年ゲンと同じ時代を生きた被爆者たちに、漫画に描かれたシーンとも重なる自身の経験を教えてもらい、今の子どもたちに伝え継ぎたいことを聞いた。

何もかも食べ物に見えた

放射能 「新しい戦争」に

 被爆当時、広島市己斐町(現西区)の己斐国民学校2年生で、ゲンと同い年の八幡照子さん(86)=広島県府中町。育ちざかりで漫画に描かれたような食糧難を経験した。夢いっぱいの子どもの命を奪う核兵器はあってはならないという思いはゲンと共通する。

  「はだしのゲン」は被爆後の食料不足をこれでもかと描く。原爆の日に生まれたゲンの妹友子も栄養失調で亡くなる。食卓に並ぶ食べ物は少なく、ゲンの母親の「みんながまんしてね」という言葉は切ない①

 ひもじかったんですよ。被爆後の重湯はほとんどが水で、3歳だった弟が「すくうてもすくうてもごはんが出てこん」て泣いて。弟に分けてやればよかったけど、8歳だった自分も食べたいばっかりでした。

 自宅で爆風に飛ばされ額をけがしました。救護所となった国民学校に行った時、校門近くの台に白い紙袋が並んでいるのを見つけたんです。「お菓子だ!」と喜んで近寄ったのですが、中身は亡くなった人のお骨でした。何もかもが食べ物に見えたんです。運動場には人を焼く臭いが立ちこめていたのに。

 2カ月後に移り住んだ光市では、母親が着物と食べ物を交換しに行っても分けてもらえません。でも、友達の家に行ったら、その子の母親が芋を出してくれたことがありました。うちのお母さんにも分けたくて、すぐには食べなかったの。家路を途中まで送ってくれた友達が「お芋返して」って。夕暮れの道をとぼとぼ歩いたのを覚えています。

 薪を取りにいった山に小さくて丸い柿の実がなっていました。おなかをすかせ、とても欲しがった私に、母は「一つだけもらいなさい」と言いました。赤い実が今も目に浮かぶんです。よそさまのものを取ってしまった良心の呵責(かしゃく)は、78年たっても残っています。

 皆が飢えていました。親を失った子どもは生き延びるために盗みをしました。ゲンも妹のミルクのために盗みを働いたでしょ。原爆は、子どもたちになんて悲しい生き方をさせたのかと思います。

 被爆者が血を吐いてなくなるシーンも多い。放射線による後障害だ。ゲンの母親も床に伏し、やがて亡くなる。火葬したら骨の形は残らなかった②

 その後、今の安佐北区で暮らすようになり、中学、高校は女子校に可部線で通いました。一緒に通学して仲のよかったのが末次君子さんです。「菜の花畠(ばたけ)に入日薄れ」と、下校時に電車の窓から外を見ながら一緒に歌ったんですよ。でもね、君子さんは高校を卒業後、顔が腫れて、高熱に悩まされるようになりました。白血病でした。輸血しても良くなりません。25歳で亡くなりました。原爆から16年がたっていました。

 私の父母と上の弟は心臓病で亡くなりました。被爆の影響かどうかははっきりしませんが、私も70歳で心筋梗塞になりました。漫画に「原爆がのこした放射能の恐怖は戦後から被爆者にとって新しい戦争となって戦いが始まった」という言葉があります。その通りだと思います。

 被爆後のような暴力や盗みや差別はあってはいけません。それを生んだ時代背景を教えることも含め、「はだしのゲン」が描いた原爆の残酷さや悲しみを伝えていく必要があります。今、世界は核抑止論に傾き、核兵器の使用も危ぶまれます。私も小さな声かもしれませんが一生懸命話します。子どもたちの将来に核兵器を使わせたくないんです。(衣川圭)

「はだしのゲン」って?

はだしのゲン
 故中沢啓治さんが自身の被爆体験に基づいて描いた漫画。原爆に遭い、家族を奪われた少年・中岡元が被爆後の広島で懸命に生き抜く物語で、1973年6月に「週刊少年ジャンプ」で連載が始まった。単行本がロングセラーとなるほか、多言語に翻訳されて世界に広がって累計1千万部を超える。広島市教委は平和教育教材で作品を引用していたが、2023年度の見直しで削除された。

(2023年8月3日朝刊掲載)

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