[ヒロシマの空白] 原爆で壊滅した旧猿楽町の営み 今に 行李 店主の遺族と対面
23年8月3日
「職人の息遣い感じる」
原爆で壊滅した爆心直下の旧猿楽町(現広島市中区)にかつてあった「高木行李(こうり)店」。店主は爆死し、商品も全て燃えてなくなった。被爆から78年がたつ今夏、戦中に作られた同店の行李が残っていることが分かった。持ち主の計らいで、遺族が行李と対面し、原爆が奪った人々の営みに思いをはせた。(新山京子)
「よく残してくださいました」。ところどころ表面が剝がれた行李を前に、高木行李店の遺族高木幸子(みゆきこ)さん(94)=中区=がほほ笑む。持ち主は安佐南区に住む橋本由利香さん(56)。東広島市に嫁いだ橋本さんの祖母が嫁入り道具として1938年ごろに購入した。娘へ、孫へと受け継がれてきたという。
竹で組んだ籠に和紙を貼り、柿渋の塗料でコーティングした行李は、縦40センチ、横83センチ、高さ22センチほど。上ぶたの内側に「髙木張行李」のラベルが貼られ「廣島市猿樂町 商品陳列館ヨリ東一丁半」と記されている。橋本さんは「旧猿楽町は爆心地の近くと聞いたことがあり、貴重かもしれないと取っておいた」と話す。先月記者を通じて高木さんの消息を知り、見てもらうことにした。
高木行李店は45年当時、原爆ドームの東約260メートルで行李の製造販売をしていた。店主の高木繁三郎さん一家6人が暮らす住居も兼ねていた。
被爆当時、ここにいた繁三郎さん=当時(49)=は即死。「寝たままの状態で白骨になっていたと聞いた」。島根で療養中だったため直爆を逃れた長男成司さん(2018年に死去)の証言が原爆資料館(中区)に残る。数人いた職人も原爆の犠牲になったとみられる。「被爆前は多くの兵隊さんが軍用行李を買い求めていたそうです」と高木さん。戦死した兄もその一人だったという。
成司さんたち遺族は、壊滅した町で戦後まもなく店を再建。疎開させていた材料を使い、製造を再開した。58年に成司さんと結婚した高木さんも手伝った。店は73年頃閉じたが、今も店があった場所に長女夫婦と暮らす。戦中の行李は、高木さん宅にも残っていなかった。原爆資料館の落葉裕信学芸員は「原爆で失われた猿楽町の存在と人々の営みが分かる貴重な資料」とする。
橋本さんは「被爆死した店主たちの思いがこもった行李。大切にします」。自身も女学生の時に被爆を体験し、あの日の惨状を知る高木さんは「戦中の物資不足の中でも丈夫な商品を作ろうとした跡がうかがえる。爆死した義父や職人の在りし日の姿や息遣いを感じる」と目を潤ませた。
(2023年8月3日朝刊掲載)