[ヒロシマの空白] 写真の家族 募る切なさ 被爆者伊勢さん 唯一の形見 「思い出つくれたのに」
23年8月3日
広島市猿楽町(現中区)で生まれ育った被爆者の伊勢栄一さん(86)=中区=が、原爆投下前に写した家族の写真を大切に保管している。町は広島県産業奨励館(現原爆ドーム)を残して壊滅し、父や兄を亡くした。手元に残ったモノクロのスナップは「家族の唯一の形見」として、在りし日の町と家族の姿を焼き付けている。
「遊び場」だった県産業奨励館の庭園とみられる光景、父が営んでいた化粧品店の看板、縁側でつぶらな瞳を向けるきょうだい…。1930年代や40年代に撮ったとみられる約50枚の写真を眺め「一番良い時代だった」と伊勢さん。母千枝子さん(2005年に92歳で死去)たちと疎開した亀山村(現安佐北区)に移していたため、戦火をまぬがれたという。
伊勢さんは原爆で家族3人を亡くした。父新一郎さん=当時(47)=は、雑魚場町(現中区)へ建物疎開の作業に出て行方不明に。旧制広島高(現広島大)の学生だった兄博吉さん=当時(17)=も動員先からの帰宅途中に亡くなったとみられる。2人とも遺骨は見つかっていない。同居し、かわいがってくれた伯母キヌさん=当時(49)=も犠牲になった。
原爆投下の数日後、家族を捜すため、身重の千枝子さんは子どもたちを連れて入市被爆した。自宅一帯は丸焼けだった。ほどなく「お母さん、今日から男になるよ。女じゃ生きていかれん」と言ったと伊勢さんは記憶する。47年ごろ、現在の中区大手町に雑貨店を構え、戦後に生まれた末の妹を含む母子7人で暮らし始めた。伊勢さんも小学高学年ごろから、近所の商店でアルバイトをして家計を助けた。
「生きていたら思い出をもっとつくれたのに…」。亡き父たちのよわいをとうに超えた伊勢さんは言う。手元に残った写真の家族は記憶の中の姿から変わらず、切なさを募らせる。
昨年11月には猿楽町や人々の様子を知ってもらおうと原爆資料館(中区)に写真をデータで寄贈した。「核兵器は落としたら終わり。開発に使うお金を世界の平和のために使ってほしい」と願う。 (小林可奈)
(2023年8月3日朝刊掲載)
「遊び場」だった県産業奨励館の庭園とみられる光景、父が営んでいた化粧品店の看板、縁側でつぶらな瞳を向けるきょうだい…。1930年代や40年代に撮ったとみられる約50枚の写真を眺め「一番良い時代だった」と伊勢さん。母千枝子さん(2005年に92歳で死去)たちと疎開した亀山村(現安佐北区)に移していたため、戦火をまぬがれたという。
伊勢さんは原爆で家族3人を亡くした。父新一郎さん=当時(47)=は、雑魚場町(現中区)へ建物疎開の作業に出て行方不明に。旧制広島高(現広島大)の学生だった兄博吉さん=当時(17)=も動員先からの帰宅途中に亡くなったとみられる。2人とも遺骨は見つかっていない。同居し、かわいがってくれた伯母キヌさん=当時(49)=も犠牲になった。
原爆投下の数日後、家族を捜すため、身重の千枝子さんは子どもたちを連れて入市被爆した。自宅一帯は丸焼けだった。ほどなく「お母さん、今日から男になるよ。女じゃ生きていかれん」と言ったと伊勢さんは記憶する。47年ごろ、現在の中区大手町に雑貨店を構え、戦後に生まれた末の妹を含む母子7人で暮らし始めた。伊勢さんも小学高学年ごろから、近所の商店でアルバイトをして家計を助けた。
「生きていたら思い出をもっとつくれたのに…」。亡き父たちのよわいをとうに超えた伊勢さんは言う。手元に残った写真の家族は記憶の中の姿から変わらず、切なさを募らせる。
昨年11月には猿楽町や人々の様子を知ってもらおうと原爆資料館(中区)に写真をデータで寄贈した。「核兵器は落としたら終わり。開発に使うお金を世界の平和のために使ってほしい」と願う。 (小林可奈)
(2023年8月3日朝刊掲載)