孤児や女性 支えた証し 被爆者支援のヒロシマ・ピース・センター 草創期の書簡・写真 確認
23年8月4日
被爆地広島で1950年に発足し、原爆孤児と海外の支援者を結ぶ「精神養子」や被爆女性の渡米治療を進めた財団法人ヒロシマ・ピース・センターの草創期の資料が見つかった。事務局長だった柳原繁登さん(75年に75歳で死去)の次男有宏さん(80)が、広島市安佐南区の自宅で確認した。原爆資料館(中区)は「公的支援の少ない時期に市民団体が被爆者をいかに支えたかが分かる貴重な資料だ」とみる。
資料は、書簡や写真、ニュースレターなど多岐にわたる。このうち55年度の事業報告書によると、当時の理事長は広島大名誉教授で、被爆した子どもの手記集「原爆の子」を編んだ長田新氏。法人設立を主導した広島流川教会の谷本清牧師、広島大の森戸辰男学長たち11人が理事に名を連ねる。事務局は流川教会に置いた。
最初に注力した活動の一つが、米ジャーナリストのノーマン・カズンズ氏が提唱した精神養子運動。養育費や手紙を寄せてくれる「精神親」との縁組は施設で暮らす孤児向けに始まったが、法人は施設外の子どもも仲介。柳原さんは在米の協力会との調整や書簡の翻訳を担った。今回見つかった資料には、年千通以上の手紙をいつ誰に送ったかを記した「海外通信発信簿」(58年)や、孤児が精神親宛てに書いた手紙も含まれる。
法人が力を入れた被爆女性の治療に関する資料も出てきた。発行人として柳原さんの名を記した「ヒロシマピースセンターニュース創刊号日本語版」(55年10月)は、東京と大阪での治療を経て55年5月に25人を米国に送り出した経緯を詳述。「乙女便り」と題した現地報告も掲載している。
柳原さんは戦前に米国の大学を卒業し、英語が堪能だった。帰国後に日米が開戦。妻は原爆死し、自らも入市被爆した。戦後は中国財務局などに勤めながら被爆者支援に尽力。64年には米国人平和活動家のバーバラ・レイノルズが提唱した「世界平和巡礼」にも参加し、欧米で原爆被害の実態を訴えた。
有宏さんは「父は不戦を願い、亡くなるまで平和活動に関わり続けた。資料は後世に役立ててほしい」と、公的機関への寄贈を検討している。(編集委員・田中美千子)
(2023年8月4日朝刊掲載)
資料は、書簡や写真、ニュースレターなど多岐にわたる。このうち55年度の事業報告書によると、当時の理事長は広島大名誉教授で、被爆した子どもの手記集「原爆の子」を編んだ長田新氏。法人設立を主導した広島流川教会の谷本清牧師、広島大の森戸辰男学長たち11人が理事に名を連ねる。事務局は流川教会に置いた。
最初に注力した活動の一つが、米ジャーナリストのノーマン・カズンズ氏が提唱した精神養子運動。養育費や手紙を寄せてくれる「精神親」との縁組は施設で暮らす孤児向けに始まったが、法人は施設外の子どもも仲介。柳原さんは在米の協力会との調整や書簡の翻訳を担った。今回見つかった資料には、年千通以上の手紙をいつ誰に送ったかを記した「海外通信発信簿」(58年)や、孤児が精神親宛てに書いた手紙も含まれる。
法人が力を入れた被爆女性の治療に関する資料も出てきた。発行人として柳原さんの名を記した「ヒロシマピースセンターニュース創刊号日本語版」(55年10月)は、東京と大阪での治療を経て55年5月に25人を米国に送り出した経緯を詳述。「乙女便り」と題した現地報告も掲載している。
柳原さんは戦前に米国の大学を卒業し、英語が堪能だった。帰国後に日米が開戦。妻は原爆死し、自らも入市被爆した。戦後は中国財務局などに勤めながら被爆者支援に尽力。64年には米国人平和活動家のバーバラ・レイノルズが提唱した「世界平和巡礼」にも参加し、欧米で原爆被害の実態を訴えた。
有宏さんは「父は不戦を願い、亡くなるまで平和活動に関わり続けた。資料は後世に役立ててほしい」と、公的機関への寄贈を検討している。(編集委員・田中美千子)
(2023年8月4日朝刊掲載)