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連載・特集

没後70年 峠三吉の伝言 <中> 河のある風景

日常が内包する悲惨さ

平和アパートから発信

 原爆詩人峠三吉(1917~53年)が文庫本の「原爆詩集」(52年)を刊行した際、前年のガリ版刷りから新たに加えた5編の詩の中に「河のある風景」がある。峠が亡くなる直前まで暮らした広島市中区昭和町の市営平和アパートから見た光景を詠んだとされる。

 峠の作品の中でこの詩が異質なのは、原爆の惨状を直接訴えるのではなく、広島の街を俯瞰(ふかん)しながら、あの日に思いをはせている点だ。アパート4階の居室で、夕暮れ時に窓の外を流れる京橋川を眺めていたのか。「都市は入江の奥に 橋を爪立たせてひそまる/夕昏れる住居の稀薄のなかに」―。何げない風景の描写が並ぶ。

 しかし3連目は一転、原爆詩人の揺るぎない信念がのぞく。「眼を閉じて腕をひらけば 河岸の風の中に/白骨を地ならした此の都市の上に/おれたちも/生きた 墓標」―。感情を抑えた言葉ながら、この地で起こった大量殺りくの現実が迫る。そして4連目の「河流は そうそうと風に波立つ」で詩は閉じる。

 「広島の人々にとって身近な川の日常は、原爆の悲惨さを内包していることを伝えている」と広島市立中央図書館の石田浩子学芸員。館内の企画展で、関連資料を展示中だ。「峠は復興した街の暮らしを実感しながら、心の中では死者を悼み続けていたのではないか」とみる。

 実際、峠は文庫の後書きで「ともすれば回想のかたちでしか思いえぬ時間の距りと社会的環境の変転をもった」と、ヒロシマの風化を危ぶむ。そしてこの回想は「常に新しい涙を加え、血のしたたりを増してゆく性質」をもつものだと訴える。

 峠は当時、「われらの詩(うた)の会」をはじめ幾つかの反戦反核サークルを率い、平和アパートの自室を活動拠点にしていた。49年にシベリア抑留から帰国した末広一郎さん(98)は「文芸サークルに誘われ、寄り合いに行ったら峠さんがいた。若い人たちの活気があり、みな峠さんを尊敬していた」と振り返る。

 広島で戦後初の近代住宅として建てられた平和アパートは、築年数が70年を越え、市が取り壊す方針を固めている。敷地内に「河のある風景」の一節を刻んだ詩碑が立つが、劣化も進む。

 「白骨を地ならした此の都市の上に」―。緑豊かに変貌した広島でこれから先もずっと拭い去ることのできない史実を、一編の詩が呼び起こし続ける。(桑島美帆)

(2023年8月4日朝刊掲載)

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