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連載・特集

ゲンと私と 「はだしのゲン」連載開始50年 <2> 江種祐司さん(95)=広島県府中町

街に無数の遺体 地獄のよう

ラジオの音楽 一筋の光

 原爆が投下された時、学徒動員先の金輪島(現南区)にいた江種祐司さん(95)=広島県府中町。直後に広島市中心部に入り、被爆の惨状を目の当たりにした。戦後は病床に伏すが、ラジオから流れる音楽が一筋の光となった。作中で歌や絵に励まされ、生きる道を見いだしたゲンとも重なる。

  無数の遺体が道沿いに並ぶ。軍人たちがトラックに次々と乗せていく。「まるで魚河岸の魚がならべてあるようじゃ」。ゲンがつぶやく①

 原爆投下の翌日以降、川土手で積み上げられた遺体を焼きました。動かそうと手首をつかむと、ぬるっと肉が抜け、骨が見えた。まさに作品にもある1こまのようでした。何とかしないといけないから、胴体に縄を巻いて引きずるんです。何も考えられない状況でした。

 広島師範学校(現在の広島大教育学部)に進学し、当時は本科1年生でした。原爆が投下された日の燃える街の中は、真っ黒な、人の形もしていないような遺体でいっぱい。まさに地獄です。作品よりもさらに残酷な光景でした。水を求める人の焼け焦げた黒い腕が伸びてきて、足首をつかまれそうになりました。でも、はね飛ばして進むしかない。まともな精神状態じゃなかった。その後、どうやって学校まで戻ったのか、覚えていないんです。

 〽さよなら三角また来て四角 四角はとうふ とうふは白い… 作品には、ゲンたちが歌い、励まし合うシーンが数多く登場する②

 もともと音楽が好きでね。戦時中は軍歌や流行歌でしたが、私も歌っていましたね。理屈抜きで歌いたくなる。音楽って力があるんです。終戦直後に寝込んでいた時、力をくれたのもラジオから流れてきたクラシック音楽でした。

 遺体の火葬やけが人の救護に明け暮れ、ようやく終戦の翌日、福山の実家に戻りました。その前から体調は悪かったのでしょうが、気力だけでなんとか。実家の畳の上で横になった途端、体を起こせなくなったんです。力を使い果たし、考えることすらできない。空っぽになったようでした。母親が必死に看病してくれましたが、1週間ほどで髪が全部抜けました。

 寝ている部屋に父親がラジオを持ってきてくれました。クラシック音楽が流れてきて聴き入りました。モーツァルトですよ。西洋の音楽は戦争中は排斥され、音楽の授業もなくなっていてね。長く聞くことができなかった美しい旋律が耳の中に流れてきて、空っぽだった自分の中に喜びがあふれてきた。

 「音楽の教師になるんだ」。そう心に決めると生きる力がよみがえってくるようでした。重湯を口にすることができ、立ち上がる練習ができ、一歩一歩回復していったんです。

 その後は、動員作業で節くれ立った指をいたわりながら、朝から晩まで夢中でピアノを練習しました。音楽教師になり、1948年、翠町中に着任。校長にオーケストラをやりたいと伝え、楽器を買ってもらいました。竹製のバイオリンもありましたね。生徒は大喜びでした。

 みんな、心を豊かにしてくれるものに飢えていたんです。希望者が殺到し、生徒は熱心に練習していました。被爆した子どももいた。子どもたちが音楽を楽しみ、喜ぶこと。それこそが平和そのものだったんです。(馬上稔子)

(2023年8月4日朝刊掲載)

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