不戦願い 日米市民つなぐ 元事務局長の柳原さん 被爆者支援団体 草創期の資料確認
23年8月4日
国の援護がほとんどなかった「空白の10年」に日米の市民が被爆者支援に動いていた―。広島市内に残されていた財団法人ヒロシマ・ピース・センターの資料からは、原爆孤児や被爆女性のために力を注いだ人々の姿が浮かび上がってくる。(編集委員・田中美千子)
「わが父ながら尊敬する。追いつけません」。柳原有宏さん(80)=安佐南区=は、法人の事務局長を務めた繁登さんを思い起こす。自宅の蔵に眠っていた資料を読み返すと、裏方に徹しつつ被爆者支援に人生をささげた父の姿がよみがえる。
子どもの頃、父の部屋からは連日連夜、タイプライターの音が響いた。日米で交わされる大量の書簡を翻訳していたらしい。法人の1955年度の事業報告書には「事務局長1人で3役4役をしている」とある。それでも愚痴一つこぼさなかった。「あの日を経て、心に決めたんでしょう。被爆者のために生きると」
繁登さんは1900年に川内村(現安佐南区川内地区)で生まれた。職を求めて海を渡った父を追い、16年ごろに北米へ。大学で物理と数学を学んだ。当時のアルバムには自由な国柄を愛した父の笑顔の写真が並ぶ。だが30年に帰国後、米国は「敵」となる。
川内は、国民義勇隊として爆心地近くに勤労動員された180人超の住民が全滅した村だ。原爆投下当時、繁登さんは両親、妻、1女2男の7人暮らし。自らは軍需工場での勤務があり、義勇隊には妻の満子さん=当時(37)=が参加していた。
繁登さんは工場から帰ると、すぐに市街地へ。月末まで通い続けたが、妻は遺骨さえ見つからなかった。当時2歳だった有宏さん。「父は当時の記憶を語ろうとしなかった。つら過ぎたんでしょう」と推し量る。
繁登さんは戦後2年目から中国財務局呉出張所に勤務。広島流川教会の谷本清牧師(86年に77歳で死去)に請われ、50年に発足した法人の活動を手伝うようになる。孤児の境遇に心を痛め、米国の支援者につなぐ精神養子運動に奔走。川内の自宅と畑を生活の場として開放し、孤児の自立も後押しした。再婚した君江さん(87年に76歳で死去)にも支えられた。
「父に米国への憎しみはなかった。むしろ日米市民の交流こそが戦争を防ぐ手だてになる、と思っていたのでは」と有宏さんはみる。繁登さん自身、56年3月の「ヒロシマピースセンターニュース」に記している。「ゆるし合い、理解し合つて行けば必ず真の平和は世界におとづれる」
繁登さんは胃がんを患い、75歳で亡くなった。有宏さんは中学校教諭を定年後、川内の義勇隊遺族会の会長に。近年は自ら地域を歩いて犠牲者の遺影を集め、8月6日に平和記念公園内の碑前で営む追悼法要で展示している。「父の影響でしょう。あの日を次代に伝える責務を感じます」
影響を受けたのは家族だけではない。見つかった資料には、晩年の繁登さんの写真もあった。笑顔の青年が一緒に写る。繁登さんが仲介した米国人女性に救われた原爆孤児だった。
(2023年8月4日朝刊掲載)
「わが父ながら尊敬する。追いつけません」。柳原有宏さん(80)=安佐南区=は、法人の事務局長を務めた繁登さんを思い起こす。自宅の蔵に眠っていた資料を読み返すと、裏方に徹しつつ被爆者支援に人生をささげた父の姿がよみがえる。
子どもの頃、父の部屋からは連日連夜、タイプライターの音が響いた。日米で交わされる大量の書簡を翻訳していたらしい。法人の1955年度の事業報告書には「事務局長1人で3役4役をしている」とある。それでも愚痴一つこぼさなかった。「あの日を経て、心に決めたんでしょう。被爆者のために生きると」
繁登さんは1900年に川内村(現安佐南区川内地区)で生まれた。職を求めて海を渡った父を追い、16年ごろに北米へ。大学で物理と数学を学んだ。当時のアルバムには自由な国柄を愛した父の笑顔の写真が並ぶ。だが30年に帰国後、米国は「敵」となる。
川内は、国民義勇隊として爆心地近くに勤労動員された180人超の住民が全滅した村だ。原爆投下当時、繁登さんは両親、妻、1女2男の7人暮らし。自らは軍需工場での勤務があり、義勇隊には妻の満子さん=当時(37)=が参加していた。
繁登さんは工場から帰ると、すぐに市街地へ。月末まで通い続けたが、妻は遺骨さえ見つからなかった。当時2歳だった有宏さん。「父は当時の記憶を語ろうとしなかった。つら過ぎたんでしょう」と推し量る。
繁登さんは戦後2年目から中国財務局呉出張所に勤務。広島流川教会の谷本清牧師(86年に77歳で死去)に請われ、50年に発足した法人の活動を手伝うようになる。孤児の境遇に心を痛め、米国の支援者につなぐ精神養子運動に奔走。川内の自宅と畑を生活の場として開放し、孤児の自立も後押しした。再婚した君江さん(87年に76歳で死去)にも支えられた。
「父に米国への憎しみはなかった。むしろ日米市民の交流こそが戦争を防ぐ手だてになる、と思っていたのでは」と有宏さんはみる。繁登さん自身、56年3月の「ヒロシマピースセンターニュース」に記している。「ゆるし合い、理解し合つて行けば必ず真の平和は世界におとづれる」
繁登さんは胃がんを患い、75歳で亡くなった。有宏さんは中学校教諭を定年後、川内の義勇隊遺族会の会長に。近年は自ら地域を歩いて犠牲者の遺影を集め、8月6日に平和記念公園内の碑前で営む追悼法要で展示している。「父の影響でしょう。あの日を次代に伝える責務を感じます」
影響を受けたのは家族だけではない。見つかった資料には、晩年の繁登さんの写真もあった。笑顔の青年が一緒に写る。繁登さんが仲介した米国人女性に救われた原爆孤児だった。
(2023年8月4日朝刊掲載)