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連載・特集

ゲンと私と 「はだしのゲン」連載開始50年 <3> 古沢知子さん(82)=松江市

親を失う描写 重なる友人

やけどの子検査 感じた「異常さ」

 終戦2年後、5歳の時に熊本から広島に引っ越してきた古沢知子さん(82)=松江市=は「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんの家の向かい側に住んでいた。中沢さんも通った本川小(現広島市中区)に入学。学校には被爆で傷ついたり、家族を亡くしたりした子どもがたくさんいた。

  ゲンは、家の下敷きになった父と姉、弟を炎で焼かれ、母と逃げる。親はみんな子どもだけでも助けたいと願った①

 近所の仲良し3人組のうち、私以外の2人は被爆していました。そのうちの1人やっちゃんは、原爆でお母さんを亡くしていました。手や頭にやけどの痕があり、髪にはパーマをあてて隠していたようでした。鼻がうまくかめなくて、袖口で拭うから鼻水で汚れていてね。私の母がその服を洗濯したり、ごはんやおやつを出したりすることもありました。

 十数年前ですが、やっちゃんに電話した時に、何げなくお母さんのことも聞いたんです。するとやっちゃんはぽつりぽつりと話してくれました。お母さんがやっちゃんに覆いかぶさって大変なやけどを負ったこと、救護所に運ばれたけど薬もなかったこと、傷にうじがわいたこと、お母さんの息がなくなるのをただそばで見ているしかなかったこと―。

 わずか4歳、想像を絶する経験ですよ。ずっと友達付き合いを続けていたのに初めて聞いたんです。途中でやっちゃんが「もう嫌」と言葉を詰まらせ、われに返りました。私はなんて心ないことをしてしまったんだろうって。やっちゃんが何十年も抱え込んできたことを思うと涙が出ました。中沢さんも、親を亡くした子どもたちの姿をたくさん描いています。思い出すのもつらい体験を描くのは、本当にしんどかったと思います。

 原爆投下から3年後、ゲンの通う小学校に米国が設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)の関係者が訪れ、子どもたちの体を隅々まで検査する②

 私が本川小1年生の頃、同じような状況がありました。教室にABCCの関係者らしき人が来て、顔や手にやけどのある子を選んでどこかに連れて行きました。名前を呼ぶのではなかったから、見た目で被爆者を区別したんでしょう。

 その時、いつも優しい担任の先生が顔をこわばらせて、直立不動になって何も言わないんです。「ただ事じゃない」って子ども心に異常さを感じました。「はだしのゲン」にも同じような先生の姿が描かれています。帰ってきた子に聞くと、何か体を調べられたようでした。

 ノートがないから運動場の砂の上で石ころを使って足し算の勉強をしたり、コスモスをバトン代わりにかけっこしたり、学校で子どもたちは明るくたくましく生きていました。でも今思うと、被爆から3年たっても子どもたちの体には放射線の影響が残っていたんでしょうね。

 私は東京の大学を出て広島で就職後、結婚して松江市に移りました。やっちゃんも結婚したけど何度も流産してね。10年余り前に亡くなりました。

 その頃から、地域の小学校の平和学習で講師を務めることになりました。必ずゲンとやっちゃんの話をします。やっちゃんにつらい思いをさせながら聞いたからには、私から子どもたちにしっかり伝えなきゃいけないと思っています。(赤江裕紀)

「はだしのゲン」感想お待ちしています

 皆さんは「はだしのゲン」を読んだことがありますか。印象に残っている場面や登場人物とその理由を教えてください。ゲンと同じ時代を生きた方のご経験や、作品全体を通した感想もお待ちしています。ファクスは082(236)2321。LINEは「中国新聞くらし」のアカウントへ

(2023年8月5日朝刊掲載)

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