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8・6式典 道府県遺族代表の思い 戦争のむごさ 語り継ぐ決意

 米軍による広島への原爆投下から78年。広島市中区の平和記念公園で6日に営まれる市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)に、31道府県の遺族代表各1人が参列する。新型コロナウイルス禍を経て、4年ぶりに30人台に回復する。最高齢は83歳、最年少は48歳。父母たちから受け継いだ「あの日」の記憶や、次世代に託す核兵器も戦争もない平和な世界への願いを聞いた。

二ツ川隆三(78)=北海道
 義理の叔母宮井マサコ、23年3月5日、93歳、急性肺炎

 叔母は体調を崩して仕事を休んでいたところ、庚午北町(現西区)の自宅の軒下で被爆した。「原爆は絶対つくってはいけない」と強く反対していた。式典には海外で暮らす孫3人を連れて行く。戦争や平和について考えてもらいたい。

田中泰恵(73)=青森
 母飛栖(とびす)郁子、23年1月24日、101歳、老衰

 安田高等女学校(現安田女子中高)の家庭科教諭だった母は動員された生徒を引率し、楠木町(現西区)の誉航空軽合金の工場で被爆した。もっと体験を聞いておけばよかったと思う。母が過ごした広島で、当時に思いを巡らせたい。

林俊江(69)=宮城
 父吉男、15年9月12日、89歳、前立腺がん

 陸軍船舶司令部(通称暁部隊)に所属していた父は皆実町(現南区)の兵舎で被爆した。体中にガラス片が刺さり、左半身にはやけどを負った。父の思いを継いで2世として活動している。今も世界で戦争が起きているのが残念でならない。

伊藤豊子(76)=秋田
 母太田文子、21年6月13日、101歳、誤嚥(ごえん)性肺炎

 母は観音町(現西区)の実家に家族と帰省していた時に被爆した。散歩中だった父は行方不明になり、母が何日もかけて捜し出したという。新型コロナウイルス禍でここ数年、式典に出席できなかった。年齢的に今回が最後と思って参列する。

鈴木則子(68)=群馬
 父治郎、21年10月23日、97歳、腎不全

 軍隊に所属していた父はあの日、爆心地から約2~3キロの山間部にいたらしい。生前「死んだら慰霊碑の名簿に名前が記される。行ってみろ」と話していた。広島を訪れるのは初めて。遺影を持って行き、今の広島を見てもらうつもりだ。

柳内潔(78)=埼玉
 父賢治、93年2月18日、76歳、心不全

 父は陸軍で暗号解読の仕事に従事していた。建物の2階にいて、奇跡的に助かったと聞いている。終戦後、関東地方に移り住んでからは、家族で広島の話はしなかった。自分も生後7カ月で被爆している。体験を伝えていきたい。

青木清子(82)=千葉
 母岡キクヨ、04年9月28日、90歳、不明

 自宅は口田村(現安佐北区)にあったが、両親と私は三篠本町(現西区)の伯母宅などを訪ね入市被爆した。その影響か分からないが、両親とも肝臓の病気で亡くなった。地元の小中学校で証言活動を続け、平和の大切さを伝えていきたい。

藤堂邦夫(79)=神奈川
 母千代子、98年11月14日、75歳、不明

 今は平和記念公園(中区)となっている材木町で暮らしていた。母と私は8月6日、疎開先の吉田町にいて、翌日に広島市に入った。母は当時の光景を語ることはなかった。式典参列は初めて。被爆死した親戚や近所の人に思いをはせたい。

横畠昌明(81)=石川
 妹山出洋子、23年4月29日、76歳、不明

 段原(現南区)に住んでいた私は母と一緒に的場町(同)の病院に行く途中に被爆した。母のおなかに妹もいたが、幸いにも被爆の影響はなく、共に普通の人生を歩んできた。順番が逆になって残念だが、またあの世で会って話せるだろう。

内藤幹夫(59)=山梨
 父藤三、12年6月25日、88歳、肝不全

 父は陸軍の通信兵で、原爆投下時、比治山の壕(ごう)の中で機材の整備をしていた。爆風ではりが落ち、数分間意識を失った。約1カ月の記憶はほぼなく、その後も高熱で寝込んだという。「戦争は駄目」と繰り返し言っていた。思いを引き継ぐ。

藤森俊希(79)=長野
 姉敏子、45年8月6日、13歳、被爆死

 市立第一高等女学校1年だった姉は、爆心地近くで建物疎開の作業をしていた。無事だった家族総出で帰ってこない姉を捜したが、見つかったのはかばんだけだった。毎年8月6日は、残ったきょうだいが姉を弔う機会になる。

石榑(いしぐれ)真利子(48)=岐阜
 父弥永誠一郎、22年7月28日、79歳、肺炎

 父は体験を語らず、伯母に今回聞いた。空襲を逃れるため兵庫県から家族と列車で長崎に向かう際に広島に入市被爆した。大八車も使い、長崎に着いたところでも入市被爆したという。どんな光景を見たのか。父の人生を見つめ直したい。

荻沢はるみ(63)=静岡
 父稔、03年10月15日、74歳、脳腫瘍

 広島二中4年の時に動員先の南観音町(現西区)の工場で父は被爆した。矢賀町(現東区)の自宅への帰路、背中が焼けただれた人に頼まれ薬を塗ってあげたと聞いた。父も関わった静岡県被団協の活動を引き継いでいきたい。

木下博之(83)=愛知
 父覚郎、45年8月6日、34歳、被爆死

 父は広島県職員だった。水主町(かこまち)(現中区)の県庁辺りで被爆したのだろう。私は母、兄、妹と大手町の自宅にいた。避難中に見た、川に人が飛び込む光景を忘れられない。今、生きているのは私だけ。家族に会いにいくつもりで参列する。

鈴木理恵子(60)=三重
 父井上公治、96年7月11日、56歳、白血病

 父の被爆体験を聞いていないのを後悔している。岡山県に疎開した父が原爆投下の5日後に戻ると、祖父母がいた中島本町(現中区)の自宅は跡形もなかったようだ。長男(34)と孫(4)を初めて広島に連れて行く。知っている事を伝える。

川金俊文(75)=滋賀
 父出(いずる)、05年9月24日、95歳、老衰

 陸軍西部第二部隊に所属していた父は陸軍経理学校の入試会場の牛田国民学校(現牛田小)で被爆。34年後に書いた手記に火の海のような街を人がさまよう惨状を記している。体験は語らなかった。言葉にするのがつらい記憶だったのだろう。

阪口善雄(75)=大阪
 父善次郎、19年3月13日、98歳、胆管腫瘍

 父は海軍の通信兵で、8月7日に呉市から救援に向かい入市被爆した。負傷者を運んだり「人影の石」が残る建物でモールス信号を送ったりしたそうだ。「核兵器と戦争を許しては駄目だ」と言っていた。式典では犠牲者を心から慰霊したい。

壷井宏泰(57)=兵庫
 父進、16年4月4日、87歳、肺炎

 広島高等師範学校(現広島大)に通っていた父は動員先の東洋工業(現マツダ)で被爆。爆心地から450メートルの自宅で亡くなっている母親を翌日見つけた。長年、国内外の子どもたちに体験を伝えていた。私も2世として平和の種をまきたい。

花房昭子(68)=奈良
 父宏昌、22年5月16日、95歳、前立腺がん

 陸軍に召集された父は広瀬国民学校(現中区)の校舎内で被爆。大手町の自宅で両親を亡くし、親戚を頼って妹と滋賀県に逃れたが、その妹も1カ月後に亡くなっていた。体験を聞いておきたいと思い続け、2、3年前にようやく実現した。

柴田杉子(60)=鳥取
 父伊谷周一、17年12月30日、88歳、骨髄異形成症候群

 父は陸軍経理学校の受験で訪れていた爆心地から約1キロの堀川町(現中区)の旅館で被爆。鳥取の受験仲間を亡くし「助けられなかったのか」と自責の念を抱いていた。参列し、父のような被爆体験や思いを次世代につなぐ手だてを考えたい。

小林悟(73)=島根
 父敏雄、23年3月17日、99歳、老衰

 通信兵だった父は爆心地から約3キロの陸軍兵器補給廠(しょう)(現南区)で被爆した。黒焦げの死体が転がる光景を生き地獄と表現し、90歳代半ばまで地元児童への証言活動を続けた。首相の核廃絶に向けた言葉は弱い。もっと強く訴えてほしい。

真野真司(62)=岡山
 父佐川茂樹、22年11月9日、91歳、肺がん

 広島二中(現観音高)の生徒だった父は中島地区の建物疎開の作業に出ていたが、教員の指示で学校へ物を取りに帰り観音町(現西区)で被爆。多くの友達を亡くし、嫌な思い出を避けて行かなかった平和記念公園で「安らかに」と祈る。

上松英邦(69)=広島
 祖父平木身利、45年9月26日、37歳、被爆死

 自宅のあった観音本町(現西区)で被爆した祖父。大黒柱を失った家族の生活は苦しく、野山の雑草も貴重な食料で、祖母は「十分に食べさせてあげられずごめんね」が口癖だったという。市民の幸せを踏みにじる戦争のむごさを語り継ぐ。

藤谷カホリ(79)=山口
 母白木雪子、13年3月13日、90歳、ぼうこうがん

 母と私は幟町(現中区)の母の実家で被爆した。軒下にいて運良く助かったが、伯母は被爆死し、叔父は顔にケロイドが残った。母は当時の話をしたがらず、私も聞けなかった。原爆反対。ただ、私も「核の傘」の下にいるのがもどかしい。

松岡正司(71)=香川
 父守、17年9月7日、91歳、肺炎

 国鉄職員だった父は原爆投下数日後に広島へ応援に入った。一面が焼け野原で川に死体が浮いていたという。退職後は地元小学校で講演し、戦争の悲惨さを伝えた。ロシアの核威嚇は許せない。初めて訪れる広島で、改めて平和を祈りたい。

三好明宏(63)=愛媛
 父和男、21年2月1日、92歳、悪性リンパ腫

 広島二中(現観音高)4年だった父は8月5日夜に岡山県の祖父方に向かったが、河原町(現中区)の県官舎に住む家族の安否確認に戻った。焼け野原の写真を撮影し、原爆のむごさを伝えている。市民が無差別に殺された事実を忘れない。

岡部卓雄(75)=高知
 母松喜、21年10月26日、97歳、老衰

 母は知人宅で、結婚予定の男性と被爆。家の下敷きになった男性に「逃げろ」と言われ生き延びた。男性は亡くなり、その兄と結婚。差別を恐れて多くを語らなかったが、ずっと男性の写真を飾っていた。原爆に遭った2人を慰霊したい。

橋浦滝二(りゅうじ)(72)=長崎
 父富一、22年5月22日、95歳、心不全

 軍に召集され長崎から移動中だった父は8月7日に広島市内に入り、8日間で多くの被爆者の遺体を埋葬した。帰郷した対馬では、長崎市で被爆した人の被爆者健康手帳の取得を支えた。初の参列で、戦争や核の脅威がなくなるよう願いたい。

高橋由子(64)=熊本
 母山中経子、23年2月25日、93歳、肝臓がん

 母は空鞘町(現中区)で暮らしていた。勤労奉仕先から家族を捜しに戻ったが、自身の弟は見つからず、祖母も亡くした。「8月6日に広島に行きたい」と語っていたが、かなわなかった。式典では母の写真を手に、一緒に祈りをささげる。

春田真未子(62)=鹿児島
 祖父段重男、98年1月18日、84歳、膵臓(すいぞう)がん

 祖父は勤務先の三菱の造船所で被爆したが、体験を話さなかった。爆心地から3・2キロの自宅まで一緒に歩いたという母(87)もどう歩いたか覚えていない。2人の趣味は俳句で私も影響を受けた。祖父の気持ちに寄せた句を式典で詠みたい。

与那嶺善道(65)=沖縄
 父盛徳、21年2月1日、96歳、誤嚥性肺炎

 海軍にいた父が原爆投下から2、3日して入市したことしか知らない。家族にも言えないほど大変だったのだろう。肝臓を患い、通院していた。式典に参列するのは初めて。父の苦労や、生前語らなかった戦争や原爆に思いをはせたい。

 ≪記事の読み方≫遺族代表の名前と年齢=道府県名。亡くなった被爆者の続柄と名前、死没年月日(西暦は下2桁)、死没時の年齢、死因。遺族のひと言。敬称略。

(2023年8月5日朝刊掲載)

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