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「米国の母」生きる支えに 被爆後孤児に 村岡さん 書簡交流 広島訪問も

日本にいい息子を持てて幸せ/苦しい時も自分を見失わずに

 色あせた写真の数々は1973年5月、平和記念公園(広島市中区)や宮島のホテルで撮られたものらしい。市内で見つかった財団法人ヒロシマ・ピース・センターの資料に含まれていた。高齢の白人女性と肩を寄せ合う笑顔の男性が写る。南区の村岡治さん(86)。「米国の母がはるばる訪ねて来てくれましてね」。50年前と同じ、柔和な笑みを浮かべた。

 母とは元音楽教師のグレース・メサーブさん。2人の間に血縁はない。原爆孤児を援助する「精神養子」運動に参加し、物心両面で支え続けてくれた。村岡さんは、米国から届いた手紙の山を大事にとってある。「遠く離れていても自分を思ってくれる人がいることに励まされ、生きてきた。心を育ててもらいました」

 村岡さんは原爆投下当時8歳。幼い頃に両親は離婚し、父と2人暮らしだった。あの日は、今の東区辺りにあった父の職場の軍靴工場でそろって被爆し、いつしか広島駅で路上生活を始めていた。飢えと闘う日々。夜の闇に紛れて畑を掘り、靴磨きもした。冬は寒さに震えながら寝床を探した。

 突然トラックに乗せられたのは翌46年11月だった。同年代の十数人と共に送られた先は、広島県戦災児教育所似島学園(現南区)。父と音信不通になった代わりに、その地でメサーブさんと縁を結ばれることになる。

 村岡さんの元には最初に届いた手紙も残る。日付は50年4月20日。「日本にいい息子を持てたとの知らせを受け、私は今とても幸せです。自分の子どもを持てたらしてやりたかったことを、あなたにしてあげられると思います」と書いてある。

 ただ、村岡さんはなかなか返事を書けなかった。相手は「敵」だった米国人。抵抗感もあった。それでも手紙は毎週のように届き、誠実な言葉が並ぶ。気持ちは変わっていった。50年8月10日付のメサーブさんの手紙には「あなたからの最初の手紙は最高の贈り物でした」とある。

 職業訓練を受け、理容師になった村岡さん。学園を離れても往復書簡は続いた。20代は職を転々とした時期もあったが、米国の母は「苦しい時も自分を見失わないように」。何度も𠮟咤(しった)激励してくれた。手紙に紙幣が挟まれていることもあった。

 65年に村岡さんが理髪店を開いた時も自分のことのように喜び、その8年後に訪ねてきてくれたのだ。妻真理子さん(79)と3人の娘にも引き合わせた。

 ヒロシマ・ピース・センターの事務局長だった柳原繁登さん(75年に75歳で死去)もその場にいた。長年、母との手紙の翻訳を引き受け、絆を守ってくれた恩人だった。

 メサーブさんの訃報は86年ごろに届いた。村岡さんは今も自宅に遺影を飾る。孫たちは「いつか米国のおばあちゃんの墓参りに行く」と言う。

 不戦を願い、被爆地で日米市民の交流を支え続けた柳原さん。まいた種は時を超え、確かに実を結んでいる。(編集委員・田中美千子)

ヒロシマ・ピース・センター
 1950年8月に広島市で発足した財団法人。48年から米国各地を巡り、被爆の実態を訴えた広島流川教会牧師で被爆者の故谷本清氏が設立を主導。米国の協力会とも連携し、原爆孤児を支える「精神養子」運動や被爆女性の渡米治療を進めた。現在は平和に貢献した個人・団体の顕彰などに取り組む。事務局長だった故柳原繁登氏の遺族方でこのほど、書簡や写真など草創期の関連資料が確認された。

(2023年8月5日朝刊掲載)

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