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社説・コラム

『想』 木原省治(きはらしょうじ) 先人被爆者からの言葉

 今でもあの時の高揚感は鮮明に覚えています。1975年2月25日の広島駅。「被爆者列車」と称された寝台急行に、被爆者や被爆2世ら457人が乗り込みました。列車の窓には外側に向けて「被爆者援護法制定要求」と書かれた文字が張られ、列車は動き始めました。

 当時の寝台急行の後方車両には、4人掛けの椅子席もあり、その席で聞かされた、被爆者たちの言葉は忘れません。

 「わしらは銭金がほしいけえ運動しているんじゃあない」「同情してもらいたいとも思わん」「大切なのは二度と放射能で苦しむ人をつくらせんことじゃ」。一般客のいない車両で話は夜通し続きました。

 「教え子を再び戦場に送らない」が口癖だった被爆教師の石田明さんは「ヒロシマの心」を語りました。ヒロシマの心とは、人間の尊厳が脅かされる「死」を拒否する考えで、原爆という科学技術で起こされた悲劇と、科学と人間のありようを問う言葉でした。

 睡眠不足の中、列車は早朝に東京駅に到着。この日は国会周辺で「被爆者援護法制定要求中央行動」が展開されました。長崎の仲間と合流し、午前中は全体集会、午後はデモと座り込み、政府との交渉があり、日比谷野外音楽堂で8千人が参加した「国民大会」に続きました。

 私は、被爆者の両親の苦労を見て育ちました。「子どもや孫には、うちと同じような目に遭わせたらいけん」と語った母も、被爆者運動を担ってきた先人たちも、多くはすでにこの世の人ではありません。

 被爆者手帳を持っている人は12万人を切りました。戦後生まれの私は74歳となりました。私自身、先人の被爆者が語った言葉を思い出し、果たすべき役割があるように感じています。

 新型コロナウイルス禍が収束に向かう中、平和記念公園は、修学旅行生と外国人旅行客の姿が目立ちます。原爆投下から78年を迎え、先人たちから託された言葉に、もがき苦しみながらも応えなくてはと思う日々です。(原発はごめんだヒロシマ市民の会代表)

(2023年8月5日朝刊セレクト掲載)

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