×

連載・特集

『生きて』 竹原高校野球部監督 迫田穆成(よしあき)さん(1939年~) <4> 西ドイツ

スポーツ交流 派遣団に

  ≪広島市立庚午中3年だった1954年8月、日独青少年交歓事業の日本派遣団の一人に選ばれて当時の西ドイツを訪問する≫
 中学校で生徒会長をやっていたからかどうか知りませんが、全国で8人の1人に選ばれました。派遣事業に尽力されたのは、64年にあった東京五輪で日本選手団の団長を務めた大島鎌吉さん。まだ外貨の割り当てがあって、海外に行くのも大変だった時代。卒業した己斐小に行って「留学生に選ばれました」と報告すると、児童から大きな拍手をもらったのを覚えています。パスポートは、どうやって取ったんですかね。

  ≪空路で4日かけて西ドイツに到着。各地で歓迎を受ける≫
 フィリピン、バグダッド、ローマなどを経由して西ドイツに入りました。現地で同い年ぐらいの子どもたちとスポーツを通して交流するのが目的でした。みんな東京は知らなくても広島という地名は知っている。どの町を訪れても、このことは同じでした。「広島から来た」というと、「ノーモア、ヒロシマ」って言ってくれる人もいましたね。ドイツも日本と同じく戦争に負けたからかもしれませんが、世界で最初に原子爆弾が落ちた場所というのは世界中に知られているんだ。そのことが記憶に残りました。

  ≪西ドイツの国力の高さにも驚いた≫
 やっぱり、アウトバーン(高速道路)ですね。これがあのヒトラーが造った道路かと。真っすぐだし、舗装された道路を車がビュンビュン走っている。広島はまだでこぼこ道が多かったですから。サドルの高いドイツ特有の自転車も覚えています。飛行機に乗るのも珍しかったし、何をしたのかはよく覚えてないけど、貴重な経験でした。

  ≪約1カ月滞在し、帰国したのは9月になってからだった≫
 だから、中学3年の夏に野球をやっていた記憶がないんです。春の県大会は出場して、本塁打を打った覚えがあるんですが。きっと僕はいなくてもよかった、大したことない選手だったのでしょう。 (2023年8月5日朝刊掲載)

年別アーカイブ