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被爆後に白血病 亡き同級生描く 平和公園の折り鶴ブース設計・小川さん 「私にとっての禎子さん」

 白血病からの回復を願って鶴を折り続けた佐々木禎子さんがモデルとなった「原爆の子の像」(広島市中区)。国内外から多くの人が訪れるが、像のそばに折り鶴をささげるブースを設計した小川公久さん(82)=中区=は現地に立つと、白血病で未来を断たれた同級生を思い出す。級友の絵を描き、奪われた命の重さを伝えている。(編集委員・水川恭輔)

 この夏、平和記念公園(中区)に立つ原爆の子の像を訪れた小川さんはしみじみとこぼした。「やはり、浩子さんのことがよみがえってきますね」

 白血病のため10歳で亡くなった宮原浩子さん。小川さんが1948年に入学した千田小(現中区)の同級生だ。「賢い子で、5年生までずっと同じクラス。女の子の中では一番親しかった」。5年生では小川さんが級長、浩子さんが副級長。放課後は一緒に壁新聞づくりに励んだ。

 だが、浩子さんは5年の途中で教室に姿を見せなくなった。「そのうち出てくる」と思っていたが、実際には治療が困難だった白血病で広島赤十字病院に入院していた。

 被爆から7年がたったが、原爆放射線の影響による白血病の増加がピーク期。浩子さんも3歳の時、爆心地から約1・1キロの自宅近くで被爆した。父は原爆で命を落とした。

 母が必死に看病したが10月に10歳で息を引き取った。「原爆症」「白血病」…。小川さんは死去後に詳しい経緯を知り、無念さが胸に刻まれた。

 小川さんは東京の大学に進み、平和記念公園を設計した建築家の故丹下健三さんの事務所(東京)に就職。「平和の灯(ともしび)」(64年完成)など園内の施設整備に関わった。

 その後、広島市に戻って独立。市の委託を受け原爆の子の像の折り鶴ブースを設計した。半円形で像を囲むデザイン。2002年に完成した。

 像を見ると浩子さんのことを連想したが、形にしたことはなかった。だが、70歳を過ぎて好きな絵に打ち込んでいた6年前、自分にとっての原爆の子の像を描こうと思い立った。浩子さんをモデルに少女像を描いた。

 その絵は、幟町小(中区)の平和資料室に展示されている。ガイドを務める友人の岡部喜久雄さん(74)に提案され、快諾した。浩子さんの発病をパネルで伝え、同小に通った禎子さんにとどまらない被害を伝えている。

 小川さんは今、原爆の子の像をこんな思いで見つめている。「それぞれの人にとっての『禎子さん』を思うことが自然で大事だと思います」。禎子さんのようには知られていない子どもも、原爆で数多く犠牲になった。その幾多の命を悼む場に―。そう願っている。

原爆の子の像
 原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかけることを目的に1958年に建立。2歳で被爆し、白血病によって55年に12歳で亡くなった佐々木禎子さんの級友たちが建立へ声を上げ、全国から募金が寄せられた。頂上に、折り鶴をささげ持つ少女のブロンズ像が立つ。

(2023年8月5日朝刊掲載)

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