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熱線跡残る3歳児の服 被爆翌年死去 久保昭二さん 兄寄贈「生きた証しに」

 「あの日」、まだ3歳の男の子が身に着けていた幼児服は、原爆の熱線が襲ってきた体の右側がひどく変色している。被爆者の久保朋行さん(89)=大阪市港区=が家族から受け継いだ弟昭二さんの遺品。頭に大やけどを負った昭二さんは被爆翌年に亡くなり、写真も残っていない。弟の生きた証しを残そうと、久保さんは原爆資料館(広島市中区)に託した。(編集委員・水川恭輔)

 一家は被爆前、広島市平塚町(現中区)で銭湯を営み、その2階に住んでいた。各地で空襲が激しさを増す1945年春、当時11歳の久保さんは親類がいた現在の江田島市に疎開したが、8月4日から配給米を取りに家族が残る家に戻っていた。

 6日の朝。久保さんが疎開先に戻るために家を出てすぐに、原爆がさく裂した。爆心地から約1・3キロ。2階の窓からのぞいて久保さんを見送っていた昭二さんは熱線を浴び、頭の右側に大やけどを負った。一帯にあった建物は崩れ落ち、町中に火が燃え広がった。

 一家は逃げ延び、江田島に身を寄せた。昭二さんは大やけどをした頭の傷口がうみ、何度も病院に通った。髪が生えなくなり、頭に小さな赤い斑点も広がった。放射線の影響とみられ、被爆後に同じ症状が出て命を落とす人が相次いでいた。

 久保さんは、必死に看病する母ツネさんの姿を覚えている。「自分にはわが子を生かす責任があると。そりゃあ、一生懸命でした」。養生のため大分県の別府温泉へ連れて行ったこともあった。

 昭二さんは一時は年が近い親戚と遊ぶ姿も見せていたが、再び体調を崩して46年5月に亡くなった。3月に4歳の誕生日を迎えたばかりだった。

 「敗血症 原子爆弾後遺症」―。今も残る医師の死亡診断書はこう書かれている。あの日まで元気だった男の子。熱線と爆風に加え、放射線が体をむしばむ原爆の影響は疑いようがなかった。

 被爆時に着ていた青い半袖の上着が遺品となった。母が79年に亡くなるまで保管。久保さんが亡き兄から受け継いだが、90歳が迫る中、昨年11月に資料館へ寄贈した。

 資料館によると、茶色くなった部分はやけどがひどかった頭の右側に近い右の首回りや肩に目立ち、熱線による焦げや傷口の体液のためとみられる。被爆の跡が明らかな幼児服の寄贈は珍しい。

 久保さんは近年、大阪市内の小学校で被爆体験を証言し、弟の死に触れて「世の中にいらない人はおりません」と訴えている。「原爆を使って戦争をしたら地球はなくなります。原爆は絶対に反対です」。今年も8月6日、核兵器も戦争もない世界の実現を願う。

(2023年8月6日朝刊掲載)

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