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壊滅の仕出屋 刻む包装紙 店主の伯父夫婦犠牲 吉田さんが作成 被爆前地図使い お好み焼き用に

 平和記念公園(広島市中区)の原爆慰霊碑から西へ約70メートル。かつて寺や民家が軒を連ねた旧中島本町に仕出屋「大松(おおまつ)」があった。米軍による原爆投下で壊滅し、店主の大松孫三郎さん・カツヨさん夫妻が犠牲になった。ここで2人が生きていた証しを―。市内でお好み焼き店を営む遺族は、被爆前の戸別地図を基に包装紙を作った。「原爆に奪われた日常を知ってほしい」と願う。(新山京子)

 戸別地図は、爆心直下と周辺一帯を「再現」しようと中国新聞が2000年に作成した「街並み復元図」。包装紙は、中島本町72番地の「大松」を赤く目立たせた。「幼い頃は亥(い)の子祭で町内を練り歩いた。思い出がよみがえります」。安佐南区大町東のお好み焼き店で、吉田幸男さん(87)が懐かしそうに指でなぞった。被爆前、店舗兼住居に暮らした。「草津港から仕入れた鮮魚の料理が人気の店でした」

 1945年当時は中島国民学校の3年生。吉田さん一家は父幸一さんの兄である孫三郎さん一家との2世帯同居だった。十数人の大所帯は「みんな仲がよく、笑いが絶えなかった」と振り返る。

 戦況が厳しさを増していた6月、吉田さんは母や孫三郎さんの三男と郊外の祖母宅へ疎開した。旧中島本町の被害を追った本紙特集「遺影は語る」(99年8月3日付)によると、広島壊滅の3日後、幸一さんらが店舗跡を捜すと孫三郎さんの頭部は配達用自転車のサドルの上にあり、下半身はがれきに埋まっていた。カツヨさんの遺骨は、まな板の下に。9歳だった吉田さんは原爆投下の10日後、自宅焼け跡に入り入市被爆した。

 その25年後、吉田さんの妻玉江さん(85)が自宅そばに食堂を開く。「伯父たちを忘れない」との吉田さんの思いをくみ、店名を継ぎながら読み方は「おおまつ」から「だいまつ」に。後にお好み焼き店へと業態を変え、現在は長女智子(よしこ)さん(58)が鉄板の前でこてを握る。

 仕出屋の写真や記録は手元になく、吉田さんたちにとって街並み復元図は情報の「空白」を埋める貴重な資料だ。「私たちの原点は、ここにある」。冷凍お好み焼きを発送する際の包装紙にしようと智子さんが思い立ち、地元の安古市町商工会に相談しながら100枚を印刷。今月から試行的に使う予定だ。

 平和記念公園が生活の場だった頃の街、人と暮らし。「肉玉そば」をくるむ紙が全国各地に伝えていく。「手に取った人がヒロシマを感じるきっかけに」。吉田さん親子の思いだ。

(2023年8月6日朝刊掲載)

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